日本三不動尊
善無畏三蔵 、空海、木曽義仲ゆかりの倶利伽羅
高野山真言宗である倶利迦羅不動寺(石川県河北郡津幡町倶利伽羅リー2)は、718年(養老2年)、インドの高僧「善無畏三蔵法師」が不動明王の彫刻像を奉安された事が始まりと伝えられる、
また、後の812年(弘仁3年)に、空海(弘法大師)が本尊と同体の不動尊像を彫り、奉安された。
現在は、成田不動尊、大山不動尊と並び、日本三不動尊の一つとして知られる。
あの善無畏三蔵が津幡に
善無畏三蔵とは?
三蔵とは、仏教の三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)に精通した僧侶であり、数人しか存在しない。
1970年代生まれの方しか通用しないが、テレビでやっていた「ニンニキニキニキ」の三蔵とは異なる。
西遊記の三蔵は、「玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)」である。
三蔵法師
■ 玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)
玄奘三蔵は、もっとも有名な三蔵であり、西遊記にも登場。
『般若心経』を中国にもたらしたといわれる。
■ 善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)
637年、インドに生まれ摩伽陀国の国王となるが出家。
達磨笈多(だるまきくた)から密教を学び、来日し倶利迦羅へ。
■ 霊仙三蔵(りょうせんさんぞう)
日本人僧の中で唯一「三蔵」の称号を与えられる。
最澄や空海と同じ唐に渡っっている。
日本における「三蔵法師」と言えば、玄奘三蔵を思い浮かべる人が多いですね。
倶利迦羅不動寺の歴史
718(養老2)
善無畏三蔵法師が不動明王の彫刻像を奉安。
812(弘仁3)
空海(弘法大師)が本尊と同体の不動尊像を奉安。
1183(寿永2)
倶利伽羅源平合戦の戦火にて焼失。
1192頃
源頼朝によって再興される。
1592頃
衰退し廃寺同然となる。
1644頃
秀雅上人が再興し、その後、加賀藩主前田家の庇護のもと再興。
1836(天保7)
不動堂などが焼失。
1869(明治2)
神仏分離令によって長楽寺は廃され、手向神社となる。
1949(昭和24)
高野山の金山穆韶大僧正の尽力により再建。
御本尊の御名から倶利迦羅山と号し、倶利伽羅不動寺として復興する。
倶利迦羅不動寺 西之坊鳳凰殿
「万灯会・燈籠流し 」の様子
毎年の夏、西之坊鳳凰殿にて開催される万灯会。
幻想的な空間の中、今までの罪を悔い改め、様々なご恩に報いるために灯籠をご自身の手で流しみては如何でしょうか。
お不動さん行事に多数の参詣者
毎月28日の縁日、毎月の行事には、たくさんの参詣者が訪れます。
(初護摩法、八重桜まつり、など)
周辺には、龍ヶ峰城址、一乗寺城、鳥越弘願寺などの史跡のほか、福祉バス・倶利伽羅バス停前には、地元野菜の直売所(三州農園☆直売所)、八大龍王神があります。
また、旧北国街道(旧北陸道)に隣接する倶利迦羅不動寺ですが、初めての方は、参拝する前に「不動ヶ池」「手向神社」に立ち寄ることをお勧めします。
境内には、四国八十八ヶ所お砂踏みなども
境内には、四国八十八ヶ所お砂踏みなども
倶利伽羅そばの食堂の隣に、四国八十八ヶ所お砂踏みや、厄除錫杖(やくよけしゃくじょう)などが楽しめます。
①四国八十八ヶ所お砂踏みや
四国八十八ヶ所の砂を踏みながら各霊場札所の巡拝を体験することで、八十八ヶ所巡礼と同様な功徳を積んでいただける。
②厄除錫杖
最高の位を持つ錫杖を持ち上げ「南無不動明王」と唱え3度振ると、前途の諸々の苦厄を払いのけ、身を守ってもらえると伝えられる。
倶利迦羅不動寺の歴史 倶利迦羅そば 四国八十八ヶ所お砂踏参拝方法 四国八十八ヶ所お砂踏 三十三観音 砺波方面の散居村 手向神社 手向神社前の駐車場 日本海を望む
倶利伽羅は、加賀、越中の境界
三州の要衝である石川県津幡町倶利伽羅は、源平合戦、一向一揆などの史跡が数多く存在します。
倶利迦羅不動寺の参拝の後には、お立ち寄りください。
7件のコメント
津幡の花見スポット「倶利伽羅公園」と「倶利迦羅さん八重桜まつり」 · 2022年4月26日 9:39 PM
[…] 倶利伽羅公園は、旧北陸道上の「倶利伽羅峠」にある公園である。石川県の津幡町と富山県の小矢部市の県境ということで小矢部「倶利伽羅県定公園」と混同されやすいが、津幡町に属する公園である。気になる両県の仲であるが、現在は、倶梨伽羅峠の戦いに因んで開催される小矢部市と津幡町の交流「源平大綱引き合戦」にて両県の親睦が行われている。そんな倶利伽羅公園であるが、沢山の八重桜が咲き誇り、津幡における「桜の名所」としても有名であると同時に、小矢部の方に行くと倶利伽羅峠古戦場など数々の史跡も存在する。また、津幡側には、手向神社、倶利迦羅不動寺があり、津幡の代表的な観光スポットとなっている。 […]
2022年4月の作業報告 · 2022年5月11日 9:33 PM
[…] 今年も、津幡町「倶利伽羅公園」に八重桜祭りが開催されました。餅つきイベントは中止となりましたが、八重桜は、見事なものでした。開催日は、4月23日(土)~5月5日となっておりますが、八重桜自体は、4月24日には、ほぼ散ってしまいました。来年「倶利伽羅さん八重桜祭り」に行こうと思った方は、気を付けてください。もし、花が散った後に出かけた方に一つ見どころ紹介。倶利迦羅不動寺に向かう途中の坂の両脇には、ピンクの散った花びらがカーテン状に続く。これも一興。 […]
聖徳太子像の伝説「御手洗池(みたらしいけ)」石川県津幡町北横根 · 2022年10月22日 9:07 PM
[…] 北横根周辺には、一乗寺跡(小矢部市)、三州農園、倶利伽羅不動尊などスポットが数多く存在します。 […]
津幡町の旭山工業団地に隣接する「新幹線の見える丘公園」 · 2022年11月23日 1:58 PM
[…] 近隣のスポットとしてお勧めは、日本三不動尊「倶利迦羅不動寺」、歴史国道「北陸道」(旧北国街道)です。新幹線に乗らずに、金沢から富山高岡まで「旧北国街道」を歩いてみるのもおススメです。 […]
秀雅上人が継承した倶利伽羅村と、等身大と伝えられる『秀雅上人像』 · 2022年11月25日 6:00 PM
[…] 現在の日本三不動尊「倶利迦羅不動寺」を中心に、加賀と越中の架け橋として古から機能してきた峠の里「倶利伽羅」。戦国時代には、加賀、越中の戦い「前田・佐々抗争」により荒廃。しかし、江戸時代に見事に復興を遂げる。その復興に貢献したのが、倶利伽羅出身の僧「秀雅上人(しゅうがしょうにん)」であった。秀雅上人は、前田・佐々抗争において、前田利家に通じることで前田家の信頼を得る。後に、豊臣秀吉による富山の役にて佐々成政が降伏。戦後、兵火により荒廃した戦火にて焼失した寺社、そして、倶利伽羅村の復興を指揮したのが秀雅上人であり、現在でも「倶利伽羅の中興の祖」として津幡町にて語り継がれる。また、長楽寺再興のほか、金沢卯辰山・永久寺、高岡・総持寺、富山・富山寺などの住職を兼務したことでも知られる。 […]
木曾義仲が倶利伽羅峠の戦いで先勝祈願した埴生八幡宮 · 2023年2月2日 11:39 AM
[…] 埴生八幡宮の境内には、社殿、源義仲像、宝物殿のほか「義仲の松」「巴の松」「鳩清水」「資料館」など見どころが盛りだくさん。石段下の広場にある「義仲の松」と「巴の松」の双方の松は、それぞれ縁の苗木を譲り受けて育てたものである。また、倶利伽羅峠の戦いの時に、源氏軍が八幡神の御使いである白い鳩の導きにより得た鳩清水(はとしみず)があり、とやまの名水に指定された。そして、私個人がよく訪れるのは、資料館である。この資料館には、倶利伽羅峠の戦いにおける説明や、シミュレーション板が展示されているほか、源平合戦に関する資料や、前田利家、佐々成政など著書が多数設置されている。特に、佐々成政関連の著書を読めるのはありがたい。石川県津幡町の倶利迦羅不動寺と共に、富山県小矢部市の埴生護国八幡宮は、旧北陸道における倶利伽羅峠観光の双璧といえよう。 […]
順徳上皇を導いた「広済寺」と「領家」を散策 · 2023年2月4日 9:21 PM
[…] 弘法大師「空海」が、北陸へ訪れた時のことである。倶利迦羅山不動寺(くりからさんふどうじ)の善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)と同体の不動明王を掘った空海(くうかい)は、その後、英田地区を訪れた。説によると、竜燈(りゅうとう)が古い松にかかり如来様の姿が雲の間に現れる。空海は、そこにお堂を建て、大日如来を安置し2年間滞まった。それが真実であれば、空海は、かなり長期にわたり北陸に居座ったことになる。それはさておき、その2年間で聖徳太子の像を彫り、広済寺(こうざいじ)に安置する。そして、承久の乱を経て1221年(承久3)、戦いに敗れた順徳上皇が新潟佐渡へ向かう途中、能登の河北沖にて大しけにあう。視界も悪く、方向すら定まらない。この時、遠く津幡方面にて光が差した。その光明に導かれた上皇一行は、上陸し難を逃れることが出来た。現在のかほく市大崎に上陸した上皇は、光明が差した現在の津幡町英田地区に向かった。後に英田に到着した順徳上皇は、その光明の正体は「広済寺」の聖徳太子像であった事を知る。 […]