1.天空の城・撮影スポット「犬山城」

南北朝時代に斯波義種(しばよしたね)によって築かれたと伝わる「犬山城」。
本来は、戌山城(いむやまじょう)と表記するところ、本ページにおいては、犬山城(いむやまじょう)と表記する。
南北朝時代に足利尊氏の北朝方にて活躍し、新田義貞と激しく抗争を繰り広げた斯波経高(しばつねたか)の五男「斯波義種」は、越前犬山城を拠点に守護大名「大野斯波家」として発展と遂げる。
その大野斯波家も斯波家内紛により1475年(文明7)には、家臣である朝倉孝景(あさくら たかかげ)に越前守護の座を奪われてしまう。
その後の犬山城は、越前朝倉氏の大野郡統治の城として歴史舞台に登場。
特に、朝倉家最後の当主「朝倉義景」の従弟にあたり、朝倉一族の中でも筆頭格であった「朝倉景鏡」(あさくらかげあきら)の居城として知られる。
本丸頂上までのルートは、「みくら清水」から上りルートと東から登ってくるルートが存在する。
近年は、越前大野城が「天空の城」として全国的に有名な観光スポットとなったことに伴い、天空の城「大野城」を撮影する絶好のスポットとしても大人気。
越前大野の観光には、越前大野城のほかにも大野城の西に聳える標高約325に築かれた「越前犬山城」と「朝倉景鏡」の歴史にも触れてみてください。

越前戌山城址

2.戌山城主「朝倉景鏡」と 景鏡 の黒歴史

織田信長と朝倉義景の争いも、信長優勢のまま勝負は終盤に差し掛かった。
序盤は、朝倉軍が戦いを優勢に進めていたが、義景の甘さが仇となり織田軍が巻き返したのである。
1573年(元亀四/天正元)、遂に刀根坂の戦いにて大敗を喫した朝倉軍が一乗谷に向かって敗走を始めた。
そして、これを追撃する信長の行動も素早かった。
間髪入れずに一乗谷(現在の一乗谷朝倉氏遺跡)へ雪崩込む。
ここまでくると朝倉家の負けは、九分九厘確定的であった。
朝倉家当主「義景」としての選択肢は、同盟国へ落ち延び再起を果たすか?
または、自害するか?
義景の答えが出る前に、従弟の朝倉景鏡(あさくらかげあき)が姿を現した。
本来であれば、まずは、景鏡の犬山城へ迎え入れる事が考えられるが、景鏡は、僅かな配下のみを引き連れ洞雲寺、そして賢松寺(六坊賢松寺)へ身を隠すことを進言。
その状況を不審に思った義景は、景鏡の裏切りを悟り自害する道を選択したのである。
景鏡はというと、織田信長に仕え、信長から一字を貰って「土橋信鏡」(つちはしのぶあきら)と名前まで改めた。
その後、景鏡は、一向宗により討ち取られ、また、息子達も捕らえられ処刑されるといった哀れな結末となった。
織田信長との一大決戦「金ヶ崎の戦い」では朝倉景恒の後詰に対し日和見。
そして、刀根坂の戦いも病気を理由に参陣せず。
そんな景鏡に「日のもとに かくれぬその名あらためて 果は大野の土橋となる」と不名誉な歌が詠わるなど後世に汚れを残すことになる。
朝倉景鏡の黒歴史であった。


1件のコメント

一乗谷朝倉氏遺跡(福井市城戸ノ内町) | ④織田軍猛追!炎上一乗谷 · 2023年1月21日 11:01 PM

[…] 既に、ここ一乗谷では、朝倉義景(あさくらよしかげ)敗走の噂が広まっている。京にも劣らぬ朝倉氏の本拠『一乗谷』は、略奪する者、逃げ惑う者で混乱状態となっている。そこに、今回従軍拒否した従弟「朝倉景鏡」(あさくらかげあき)が姿を現した。景鏡は、朝倉一族の筆頭格の武将でもある。「殿、ここは、もう危のうござる」「落ちられよ」疲労が充満した顔の義景が静かに答える。「どこへ行けと申すのじゃ」景鏡は、東を指差す。「我が越前戌山城に入られよ」越前戌山城(えちぜんいぬやまじょう)は、景鏡の居城であり、間もなく織田軍が迫ってくる一乗谷よりは、混乱していない。義景は、正直諦めかけていた。義景は、気高い分に粘りがない。この性格が、戦国乱世で明暗を分けた。暫く時が過ぎ、義景は重い腰をようやく上げた。「大野へ行こう・・・」景鏡が先頭となり、義景一向は越前大野へ向う。それから暫く、一乗谷の空に真っ赤な炎が上った。ここに朝倉氏五代が築いた王国「一乗谷」が落城する。 […]

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