戦国朝倉家五代「朝倉義景」の生涯
戦国期における越前の名門「越前朝倉家」の五代当主である「朝倉義景」の人生は、波乱に満ちたものでった。
京都から多数の文化人を招き一大文化圏を築き上げていることから、国を統治する能力は高かったと想定される。
しかし、静かにて治まる国「越前」に足利義昭が訪れたことにより義景の人生は波乱の人生へと急転。
以降、天下を目指す「織田信長」に人生の大半を費やすこととなる。
1567年(永禄10) 足利義昭を一乗谷に迎え入れる
1568年(永禄11) 義昭が、織田信長を頼り一乗谷を離れる
1570年(永禄13) 織田信長との抗争が始まる
1570年(元亀元) 織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍が姉川で激突(姉川の戦い)
1573年(天正元) 信長に敗れ、一乗谷が炎上
織田信長との戦い
1570年から始まる織田信長との抗争であるが、当初は、むしろ朝倉義景が優位に戦いを進めていた。
建て前であろうが、信長が義景に対し「天下は朝倉殿(義景)持ち給え。我は二度と望みなし」と起請文を出した程である。
その後、義景の詰めが甘く、金ヶ崎城の戦い、志賀の陣にて信長を追い詰めながらも好機を逸した。
また、武田信玄の信長包囲網にも参戦するが、包囲の穴を作る失態を犯してしまう。
結果、信長に反撃の機を与え1573(元亀4)の利根坂の戦いに大敗北を喫し、一乗谷(現在の一乗谷朝倉氏遺跡)乱入を許してしまう。
朝倉義景墓所が語る朝倉家の終焉
一乗谷に帰還した朝倉義景は、まず従妹にあたる「朝倉景鏡」(あさくらかげあきら)の進言にて「洞雲寺」へ向かう。
その後は、洞雲寺(とううんじ)の防備に問題があることから、「六坊賢松寺」へ移動した。
六坊賢松寺に辿り着いた時には、手勢は、ほぼゼロであった。
この時すでに、景鏡に裏切られていたのである。
義景は平泉寺にも使者を送ったが援軍は期待出来なかった。
最後の望みの綱であった「平泉寺」の僧兵にも見放されたのである。
この平泉寺と景鏡は、後に、勝山の攻防にて滅ぼされることになるが、万事休す。
遂に義景は、覚悟を決めた。
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六坊賢松寺(福井県大野市明倫町) | ⑥名門朝倉の終焉!義景自刃 · 2023年1月20日 8:57 PM
[…] 六坊賢松寺(ろくぼうけんしょうじ)。賢松寺は、現在の曹源寺(福井県大野市明倫町)にあったと伝えられる。ここには、朝倉義景(あさくらよしかげ)以下、愛息「愛王丸」とその母「小少将」、それに義景の「母光徳院」がいる。義景は、静かに深く考え込む。<なぜ賢松寺・・・>考えること数刻、義景は細かに悟った。<やはり、そうであったか・・・>義景は、戦国大名の顔と同時に文化人としての顔を合わせ持っている。そのため、感が鋭い。考えづらいが、従弟である朝倉景鏡(あさくらかげあきら)の裏切りを悟った。家臣の高橋景業(たかはしかげあきら)、鳥居景近(とりいかげちか)へ顔を向ける。「筆と紙、そして・・・」「愛王丸をここへ」〈信長は、朝倉家存続を許さぬであろう〉「景業、3人だけは命を助けるよう申して参れ」三人とは、愛王丸、小少将、光徳院である。そして愛王丸を抱き寄せ、静かに筆を走らせた。これが義景の辞世の句となる。それを書き終えると同時に、カサカサと甲冑の音が寺を囲みこんだ。景近が外へ出て大声で叫ぶ。「殿は、ただ今仕度をしておる最中である。今暫く待たれよ」景近が応対した間、義景以下家臣も脇差を抜く。そして、静かに朝倉家の歴史を終わらせた。朝倉義景の墓は、福井県大野市泉町に「朝倉義景墓所」として静かに越前大野を見守っている。 […]