1.順徳上皇を導いた光明!「広済寺」の聖徳太子像

弘法大師「空海」が、北陸へ訪れた時のことである。
倶利迦羅山不動寺(くりからさんふどうじ)の善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)と同体の不動明王を掘った空海(くうかい)は、その後、英田地区を訪れた。
説によると、竜燈(りゅうとう)が古い松にかかり如来様の姿が雲の間に現れる。
空海は、そこにお堂を建て、大日如来を安置し2年間滞まった。
それが真実であれば、空海は、かなり長期にわたり北陸に居座ったことになる。
それはさておき、その2年間で聖徳太子の像を彫り、広済寺(こうざいじ)に安置する。
そして、承久の乱を経て1221年(承久3)、戦いに敗れた順徳上皇が新潟佐渡へ向かう途中、能登の河北沖にて大しけにあう。
視界も悪く、方向すら定まらない。
この時、遠く津幡方面にて光が差した。
その光明に導かれた上皇一行は、上陸し難を逃れることが出来た。
現在のかほく市大崎に上陸した上皇は、光明が差した現在の津幡町英田地区に向かった。
後に英田に到着した順徳上皇は、その光明の正体は「広済寺」の聖徳太子像であった事を知る。

領家の「広済寺」

2.津幡の、プチいにしえ空間「領家」ストリート

石川県河北郡津幡町の領家は、津幡のプチいにしえ空間といえる。
隣接する「能瀬」には、能瀬川公園桜まつりが開催され龍ヶ口井戸跡が存在し、「御門」には、順徳上皇行在所御門屋敷跡あり、英田地区には、その他にも御門屋敷跡など観光ミニスポットも存在する。
そして、領家には、順徳さん謎解きウォークラリーのポイントでもある「広済寺」が存在し、一度訪れていただきたいスポットである。
さて、英田地区の御門(みかど)は、上皇が滞在した地が由来である。
同じ英田地区の領家(りょうけ)は、上皇の供奉(ぐぶ)の住居があったことに由来する。
英田地区の町おこしは精力的で、順徳さん謎解きウォークラリー、能瀬川公園桜まつりの他にも、近年、英田地区8集落の獅子頭12体が英田公民館で初めて一斉に飾られた。

プチいにしえ空間「領家」ストリート

3.領家にも城が存在した?

河北郡誌には、15世紀後半に加賀「富樫政親」(とがしまさちか)が越中方と謀り倶利伽羅より英田広済寺を攻める。
また15世紀後半には、越中「佐々成政」(さっさなりまさ)が英田広済寺を攻めるとある。
富樫氏は明らかに越中方面から攻めているが、佐々氏は能登方面からか?
佐々成政は、末森城の戦い時の撤退ルートは能登方面から越中にかけてであり、津幡の鳥越城(とりごえじょう)を奪うまでは、撤退ルートに至る寺社を悉く焼き討ちしている。
よって、英田広済寺が佐々成政により焼き討ちされた記録と合致する。
またその時、順徳上皇の滞在記録なども焼失したらしい。
結論から言うと、越中側から敵が攻め寄せたのは、富樫政親であることが想定される。
さらに疑問は、記録にはその城は、現在の県道59号線(旧高松津幡線)と瓜生能瀬線の交わる標高40メートルほどの小高い山とある。
その場所は、現在の広済寺とは少し離れた地であり、英田広済寺が城であったとは考えにくい。
戦国期になると、一向一揆の時代にて英田広済寺の相当な勢力があったと考えられる。
ゆえに、標高40メートルほどの小高い山というのは、英田広済寺を本拠とした支城的役割を担い、越中方面の防衛および監視機能であったことが推定される。


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