1.能瀬・御門に存在した順徳上皇の仮御所「御門屋敷跡」

鎌倉の武家政権「北条氏」(ほうじょうし)から政権奪取を目論む八十二代天皇「後鳥羽上皇」。
後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、八十三代天皇「土御門天皇(つちみかどてんのう)」が温厚な性格であったため、北条氏討伐に意欲を燃やす八十四代天皇「順徳天皇(じゅんとくてんのう)」を誕生させる。
順徳天皇は、鎌倉幕府および北条氏討伐に積極参加するため、わざわざ仲恭天皇(八十五代天皇)に譲位まで行い討幕に集中した。
そして、順徳上皇となった後は、父であり実質的な権力を持つ後鳥羽上皇と共に精力的に鎌倉幕府の倒幕準備をすすめる。
しかし、その努力も空しく後に承久の乱(じょうきゅうのらん)として語られる戦いに敗れた。
承久の乱に敗れた順徳上皇に佐渡へ配流(流罪・流刑)が決定された。
佐渡へ向かう船は、能登半島通過時に大しけに遭い、やむなく王崎(現在のかほく市大崎)の浜に上陸される。
荒れ狂う波により、方向すら正確にとらえる事で出来ない。
この時に、船を導いたのが領家「広済寺」(こうざいじ)の弘法太師が彫った聖徳太子像であったという。
聖徳太子像の光明により導かれた上皇一行。
その後、3年もの間、津幡の行在所(あんざいしょ)として仮御所『御門屋敷』に滞在した。
それが現在の英田地区に残る仮御所『御門屋敷跡』である。
津幡町御門(みかど)の広勝寺の前には、「順徳上皇行在所御門屋敷跡」の碑が立っている。
また、御門屋敷跡とともに、順徳上皇に飲料水として差し上げるための龍ヶ口井戸跡(石川県河北郡津幡町字能瀬井74-3[英田郵便局]隣接)も発見された。
地名である「御門」は、仮御所があったことから名づけられた。
この地区では、順徳上皇を「順徳さん」と親しみを込め、毎年4月には、順徳さん「能瀬川公園桜まつり」が開催される。

津幡町能瀬川近くに存在したと伝わる「御門屋敷跡」

2.後鳥羽上皇

承久の乱でも知られる第82代天皇「後鳥羽天皇」(ごとばてんのう)。
後鳥羽天皇の幼少の頃、源氏と平氏の争い「源平合戦」が激化していた。
源氏方の大将「木曽義仲」(きそよしなか)が、倶利伽羅峠の戦いにて平維盛を破ることで形勢は源氏に傾く。
その後、義仲率いる源氏軍が入京することにより、京の平家軍は、西国へ逃げ去ってしまう。
事もあろうに、まだ幼い第81代天皇「安徳天皇」を連れ去ると共に、三種の神器も持ち去った。
三種の神器うち、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は無事に取り返すことに成功した。
しかし、「天叢雲剣」(あまのむらくものつるぎ)またの名を「草薙剣」くさなぎのつるぎ)」が見つからない。
そんな状況の中、第77代天皇であった後白河法皇は、消息と安否が分からないまま次天皇を決定しなければならなかった。
そこで挙がったのが尊成親王(たかなりしんのう)であり、後の「後鳥羽天皇」である。
後鳥羽天皇は、伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣として代用し即位。
それ以降は、伊勢神宮から与えられた形代の剣を代用したと伝わる。
草薙剣は、本体と形代のふたつある、または、ひとつは、レプリカであるなど。
その真相は分からない。
それから数年後、後鳥羽天皇と鎌倉幕府との間に軋轢が強まり、互いに牽制し合う状況が続いた。
そして、1198年(建久9)年、後鳥羽天皇は土御門天皇に譲位し、自らは、院となり「後鳥羽上皇」が誕生。
続いて、土御門天皇に譲位を迫り、第84代天皇「順徳天皇」(津幡町「能瀬川公園桜まつり」と「順徳天皇」 参考)を誕生させたところで「承久の乱」が勃発する。
結果は、鎌倉幕府「北条氏」との戦い「承久の乱」にて敗北。
敗れた後鳥羽上皇にも沙汰が下った。

後鳥羽上皇系図

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