1.能瀬川公園桜まつり「順徳さん」は、津幡の花見スポット

津幡町の「能瀬川公園」(のせがわこうえん)にて開催(毎年4月中旬)される「能瀬川公園桜まつり」は、順徳上皇(じゅんとくじょうこう)にゆかりがあり「順徳さん」として親しまれる桜まつりである。
第84代天皇「順徳上皇」は、承久の乱にて父の後醍醐上皇(ごだいごじょうこう)とともに、鎌倉幕府と戦った天皇として知られる。
戦いに敗れた順徳上皇は、佐渡へ流される途中、大しけのため御門に仮の御所(御門屋敷)を定め暫く滞在した。
そのため、この花まつりは、花見と同時に上皇伝説をモチーフにした催しも地元では、楽しみの一つとされている。
能瀬川公園桜まつりのイベントでは、順徳上皇船上パレード、餅つき大会、民謡会、和太鼓演奏などが予定され、約120本のソメイヨシノを中心にイベントを盛り上げる。
今年は、やるのか不明であるが、能瀬川を花嫁道中の屋形船が進む風景は、一見の価値ありでかつ、幸せ運気をいただけるパワースポットである。
順徳さん謎解きウォークラリーコースとともに、能瀬川公園の桜をお楽しみください。

能瀬川公園桜まつり会場

2.順徳天皇と承久の乱

(1)順徳天皇とは

第82代天皇「後鳥羽天皇」(ごとばてんのう)の歴史に登場する二人の皇子がいた。
後の第83代天皇「土御門天皇」(つちみかどてんのう)。
そして、第84代天皇「順徳天皇」(じゅんとくてんのう)である。。
ここでは、上皇または、天皇と記載させて頂くが、後鳥羽天皇は、早々に「土御門天皇」に譲位し、自らは院政を執り上皇「後の後鳥羽上皇」となる。
権限のない「土御門天皇」は、もともと温厚な性格の持ち主であったとされ、これが後の退位の原因となる。
当時の鎌倉幕府は、初代鎌倉殿「源頼朝」(みなもとのよりとも)の死後、北条氏が実権を握っていた。
北条氏に不満を抱いていた「後鳥羽上皇」は、度々、鎌倉幕府に対して難題を突き付けるが時の執権「北条義時」(ほうじょうよしとき)により悉く回避されてしまう。
とうとう痺れを切らした「後鳥羽上皇」は、1210年(承元4)温厚な「土御門天皇」を退位させ、気性の荒い「順徳天皇」をで即位させる強硬手段に出る。
即位した「順徳天皇」は、鎌倉幕府との対決姿勢を強めることで、後の承久の乱へ発展していくのであった。
これほどまでに、「順徳天皇」が打倒鎌倉幕府に執着したのは、源氏の母を持つ「土御門天皇」に対し、「順徳天皇」の母方は平氏一門の出であり、その影響が強かったのではないかと伝えられる。

承久の乱における対立図

(2)承久の乱

1221年(承久3)順徳天皇は、鎌倉幕府との決戦による理由から第85代仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)に攘夷。
後鳥羽上皇と順徳天皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げる。
対する鎌倉幕府側も、有名な北条政子(ほうじょうまさこ)の叱咤にて北条義時に従い朝廷側との対決姿勢を明らかにし京に向かい西上作戦を開始。
ここに日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力衝突『承久の乱』が始まった。
新興勢力である武家政権を倒し、朝廷の復権を目的とした後鳥羽上皇と順徳天皇の朝廷側。
そして、鎌倉を中止とした武家政権を目指した北条義時、政子の鎌倉幕府側。
両者の対決は、尾張(現在の愛知県)から西を中心に展開された。
大井戸の戦い(岐阜県美濃加茂市)が、大豆戸の戦い(岐阜県各務原市)が激戦地として有名である。
いずれの戦いも、鎌倉幕府側が勝利し「後鳥羽上皇」が幕府軍に使者を送り事実上の降伏をしたことで鎌倉幕府側の勝利にて承久の乱が終結する。
敗れた後鳥羽上皇は隠岐に、順徳天皇は佐渡に配流される。
佐渡に向かった順徳天皇は、能登半島通過時に大しけに遭い、領家「広済寺」の光明を頼りに能登半島に上陸。
その後、現在の石川県河北郡津幡町「能瀬地区」に滞在し仮御所であった「御門屋敷跡」や当時使用した井戸「龍ヶ口井戸跡」が残る。
そして、この戦いに関与しなかった「土御門天皇」も、自ら責任を取り処罰を望んだことから四国(土佐から伊予)へ配流された。

領家「広済寺」

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