1.佐々成政が登場、津幡の「鳥越城」

現在の津幡町「鳥越城」(とりごえじょう)は、白山市の「鳥越城」とは異なる。
いずれも、一向一揆勢力の砦としての歴史を持つが、もともとは、「鳥越弘願寺」(とりごえぐがんじ)の支城的な役割を担っていた。
戦国史としては、前田佐々抗争における能登末森城(のとすえもりじょう)の戦いに登場。
1584年(天正12)9月、佐々成政(さっさなりまさ)は、越中富山城から沢川・梨木を経て現在の宝達志水町の坪井山に着陣後「末森城」を攻めた。
成政の家臣「佐々平左衛門政元」(さっさへいざえもんまさもと)が末森城本丸まで迫るなど、佐々軍優勢のまま戦いは進んだ。
しかし、末森城(すえもりじょう)陥落間際で前田利家が間一髪まに合い佐々軍を撃退。
あと一歩のところで末森城攻めに失敗した成政は、津幡方面へ敗走。
この不利な戦いを完全な負け戦にしたくない成政は、途中村々を焼きながら起死回生となる津幡城(つばたじょう)襲撃を試みる。
ところが、物見の報告によると津幡城とその周辺には、前田の軍旗が多数なびいているとのこと。
遅れてやってきた前田軍の援軍と考えた成政は、急遽「鳥越城」に矛先を変える。
なんとしても、せめて一槍でも入れたい成政。
そこに吉報が入る。
「鳥越城の城兵が金沢へ撤退」
鳥越城を守っていた「吉沢嘉兵衛」「目賀田又右衛門」「丹羽源十郎」が末森城が落ちたとの誤報を信じてしまったのである。
しめたとばかりに、成政は鳥越城へ向かう。
敗走途中でありながらも、もぬけの殻となっていた鳥越城を奪取。
一方的な敗戦となりうる状況の中での面目躍如といったところである。
吉沢達の鳥越城撤退は、末森城が陥落したという流言が原因であったと伝えられるが真相はわからない。

津幡町の鳥越城

2.「七黒トンネル」と「笠野トンネル」そして、笠野「鳥越城跡」

田屋~倉見間を超えるには、1俵の米でさえ馬につけないと超えれない急坂があり、1890(明治23)年に広瀬五郎作が「七黒トンネル」を完成させる。
その後、七黒トンネルから「笠野トンネル」が完成した。
白山市の加賀鳥越城に対し、津幡町の鳥越城は現在「津幡鳥越城」(つばたとりごえじょう)または「笠野鳥越城」(かさのとりごえじょう)と呼ぶ。
笠野鳥越城跡へは、笠野トンネル完成記念碑近くから鳥越城跡を登るが、なかなか難儀である。
成政が汚名返上の行動でありながも意識した鳥越城は、小規模ながらに堅城であり要所でもあったことが窺える。
その後も、津幡城から前田秀綱(まえだひでつな)が奪い返しにいくも、城将「久世但馬」(くぜたじま)にはねのけられている。

笠野トンネル


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