『末森城址』が語りかける末森山古戦場の歴史

1584年(天正12)に、羽柴秀吉と徳川家康が戦った「小牧長久の戦い」を機に、加賀の前田利家、越中の佐々成政の抗争が激化。
前田・佐々戦争である。
羽柴派の前田に対し、徳川派の佐々は、越中一乗寺城から加賀の朝日山城を攻撃。
しかし、前田家の城将「村井長頼」により撃退され、さらに、「一乗寺城」「龍ヶ峰城」も奪取される。
成政は、戦略の見直しを迫られる。
起死回生に出た成政は、大軍を率いて能登に侵攻。
現在の宝達清水町にある能登『末森城』(すえもりじょう)を急襲する。
夜襲を掛けることで序盤は、優勢であったものの、末森城の城主「奥村永福」(おくむらながとみ)が粘りを見せ奮戦。
予想外の苦戦に城攻めに時を費やしたことで、前田利家率いる本隊が佐々軍の後方に攻めかかった。
これにより、佐々軍は越中に敗走し、富山城を拠点に越中防衛に力を注ぐことになる。
末森城の戦い(末森の合戦)は、前田利家の大勝利で終わった。
また、この『末森城の戦い』をもって、事実上の「前田佐々抗争」が幕を閉じる。

末森城の戦いを語る『末森山古戦場』

末森城の戦いにて奮闘する 末森城主『奥村永福』

前田利家と同じく尾張国で生まれた奥村永福は、利家の兄「利久」の家臣であった。
尾張からの利家家臣であるが、利家と兄利久の家督相続問題の件にて、一度は浪人するに至り前田家を去る。
しかし、織田信長の北陸侵攻時に、前田家に帰参。
前田家の金沢入りすると、能登『末森城』を与えられる。
その後、前田家の危機『末森城の戦い』(1584年)時には、宿敵「佐々成政」1万五千もの大軍の猛攻を凌ぎ、前田利家を救った。
末森城の城主『奥村永福』の奮闘ぶりは、豊臣秀吉にも評価され、加賀前田家の重臣として利家、利長、利常の三代に渡り活躍した。

宝達志水町の能登『末森城跡』

末森城の戦いに関連する史跡には、「富山城」「津幡城」が存在します。また末森城の近くには、「そば処上杉」という有名な蕎麦屋さんもオススメ。

末森城近くの「そば処上杉」
そば処上杉(石川県羽咋郡宝達志水町麦生ヌ68 )

2件のコメント

倶利伽羅城と倶利伽羅堡の謎を解く · 2022年12月30日 9:22 PM

[…] 上記に記載した、越能賀三州誌における佐々と前田の争いにおいて、佐々成政が国境封鎖をしたとあるように、倶利伽羅における砦機能は非常に重要であったと考えられる。1584年(天正12)に朝日山城急襲に失敗した成政は、さらに国境強化を始める。倶利伽羅城の強化は、そのタイミングであり、佐々平左衛門と野村主水が入る。成政は、いずれ前田利家の拠点である金沢「金沢城」を落とさなければならない。流石に、百万石近い国力を持つ金沢「前田家」を真っ向から攻めるわけにはいかず、まずは、能登との分断を図る必要があった。利家も、金沢から七尾まで距離が遠くあり、丁度中間にあたる現在の羽咋、宝達に小城を改築し「能登末森城」を築く。その後、有名な末森城の戦いが起きるわけであるが、成政は、末森城を落とすことで能登との分断を図り、その上で、金沢へ総攻撃を仕掛けるつもりであったのだろう。その時に、加賀、越中を繋ぐ街道「北陸道」上にある倶利伽羅峠を押さえておかなければ戦略上破綻してしまう。ゆえに、倶利伽羅城は、砦レベルながらに非常に重要な城であったことが窺える。 […]

宝達志水町「敷浪」の桜の名所「やわらぎの郷」 · 2023年1月9日 8:48 PM

[…] 押水「モーゼパーク」 - 志雄「志乎・桜の里」 - 敷浪「やわらぎの郷」 - 千里浜海岸「千里浜なぎさドライブウェイ」その他、前田利家と佐々成政の戦いの舞台「能登末森城」、宝達山山頂などがあります。 […]

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