1.マイナーな津幡の史跡「倶利伽羅城」を、軍事的観点から見る

倶利伽羅城(くりからじょう)と倶利伽羅堡(くりからほう)の存在。
河北郡史にも「倶利伽羅堡址 今其地に詳にせず・・」とある。
倶利伽羅城は、現在の倶利伽羅公園倶利伽羅五社権現がある国見山周辺に存在したとされる。
倶利伽羅の東には、小矢部方面に源氏ヶ峰城(げんじがみねじょう)が存在し、当然頂上に近い倶梨伽羅には、城があっても何ら不思議ではない。
しかし、「倶利伽羅峠の戦い」のあった1183年(寿永2)は、平維盛が猿ケ馬場に本陣を置いたことからも当時は、城、砦レベルの防御施設がなく、また、この峠には特に城としての機能は必要なかったと想定出来る。
また、佐々成政と前田利家の争いの延長線にある1585年(天正13)の豊臣秀吉の佐々成政征伐「富山の役」には、成政が国境封鎖をしたと越能賀三州誌に記録が残る。
国境封鎖ということからも、倶利伽羅にあった要塞は、倶利伽羅城ではなく、正式には関所機能を強化したレベル「倶利伽羅堡」であったのではないか。
富山の役の時、佐々成政は、現在の
倶利迦羅不動寺手向神社がある「倶利伽羅城」と田近越(たぢかごえ)の脇道を押さえる「一乗寺城」で加賀越中国境を固める。
対する
前田利家は、津幡城、朝日山城の防衛を強化した。

2.倶利伽羅における砦の重要性

上記に記載した、越能賀三州誌における佐々成政と前田利家の争いにおいて、成政が国境封鎖をしたとあるように城レベルまで必要ないとしても倶利伽羅における砦機能は非常に重要であったと考えられる。
1584年(天正12)に朝日山城急襲に失敗した成政は、さらに国境強化を始める。
倶利伽羅城の強化は、そのタイミングであり、佐々平左衛門(さっさへいざえもん)と野々村主水(ののむらもんど)が入る。
成政は、いずれ利家の拠点である金沢「金沢城」を落とさなければならない。
流石に、百万石近い国力を持つ金沢「前田家」を真っ向から攻めるわけにはいかず、まずは、加賀と能登との分断を図る必要があった。
利家も、金沢から七尾まで距離が遠くあり、丁度中間にあたる現在の羽咋、宝達にある「能登末森城」を改築する。
その後、有名な末森城の戦いが起きるわけであるが、成政は、末森城を落とすことで能登との分断を図り、その上で、金沢へ総攻撃を仕掛けるつもりであった。
その時に、加賀、越中を繋ぐ街道「旧北陸道」上にある倶利伽羅峠を押さえておかなければ戦略上破綻してしまう。
ゆえに、倶利伽羅城は、砦レベルながらに非常に重要な城であったことが窺える。

倶利伽羅城跡から小矢部方面を望む

3.倶梨伽羅村の歴史

戦国時代に「前田・佐々抗争」により荒廃した倶利伽羅村。
江戸期に入り前田利家の庇護により倶利伽羅村は、復興を遂げるが、その復興に貢献したのが、倶利伽羅出身の僧「秀雅上人(しゅうがしょうにん)」である。
現在の倶利伽羅峠上にある等身大と伝えられる『秀雅上人像』は、上人75歳の寿像と伝えられる。
さらに旧倶利伽羅は、明治に倶利伽羅村(くりからむら)・山森村(やまもりむら)・九折村(つづらおりむら)・河内村(かわちむら)・上野村(うわのむら)・坂戸村(さかどむら)・越中坂村(えっちゅうざかむら)・刈安村(かりやすむら)・富田村(とみたむら)・原村(はらむら)・竹橋村(たけはしむら)が合併することで誕生した。
その後、さらに合併を繰り返し、1957年に津幡町に編入し現在に至る。
倶利迦羅不動寺を訪れる場合、IRいしかわ鉄道「倶利伽羅駅」で下車。
歩くとかなり大変であるが、たくさんの観光客がハイキング感覚で登り降りする姿を見かける。

津幡町「字倶利伽羅」

4.マイナー武将「佐々平左衛門政元 」とは

佐々平左衛門(さっさへいざえもん)こと「佐々政元」(さっさまさもと)は、成政の叔父にあたると伝えられる。
平左衛門は、佐々成政に仕え越中木舟城主(えっちゅうきふねじょうしゅ)となり越中加賀国境防衛の軸となり活躍。
1584年(天正12)8月に始まった佐々成政と前田利家の戦い「前田佐々抗争」では、成政から常に前線を任され「倶利伽羅城」「一乗寺城」「龍ヶ峰城」を預かった。
このことからも、成政の信頼が最も厚かった武将といえる。
三州記、末森記などにおいても、佐々方の武将として数多く登場するが、全国レベルでは悲しいことにマーナ―武将扱いである。
今後の「前田佐々抗争」の人気に期待したい。
一乗寺城から出陣した平左衛門は、前田家家臣「村井長頼」(むらいながより)が守る「朝日山城」そして「松根城」を襲撃。
利家が援軍に駆けつけたことから、平左衛門率いる佐々軍は撤退するものの松根城を奪う。
松根城に佐々家家臣「杉山主計」(すぎやまかずえ)を入れ、自らは、越中加賀国境をさらに固めた。
倶利伽羅城が改築されたのは、この頃であろう。
そして、1584年(天正12)9月、前田佐々抗争における最大の戦い「末森城の戦い」が勃発。
戦いには敗れたものの、佐々平左衛門は末森城攻城戦において本丸直前まで攻め登るなどの武勇を示した。


3件のコメント

津幡の花見スポット「倶利伽羅公園」と「倶利迦羅さん八重桜まつり」 · 2023年2月2日 3:50 PM

[…] 明治に入ると明治政府の神仏判然令(廃仏毀釈)による倶利伽羅長楽寺が廃絶し手向神社となる。それと同時に、現在の倶利伽羅公園のある墓地も上げ地となり民間人の所有となったが、倶利伽羅の「北崎佐太郎」(きたざきさたろう)が自田と交換し所有者となる。北崎は、倶利伽羅の強い想いから自費で整備を行うが、晩年、想いを西砺波郡埴生村(現小矢部市)そして、現在は、津幡町が管理するに至る。佐太郎がいなければ、現在の倶利伽羅は無いとさえ語り継がれる。当園には、大友池主(おおとものいけぬし)が大伴家持(おおとものやかもち)に送った歌(万葉集巻17)の碑、今石動城代「篠島織部清了(ささじまおりべきよのり)」顕彰碑が存在する。特に、倶利伽羅公園「駐車場」の前にある、国見山の五社権現には大変であるが登る価値あり。また、国見山から倶利伽羅公園にかけて戦国期には、倶利伽羅城が存在したと伝わる。 […]

国見山に鎮座する倶利伽羅「五社権現」と 108段の石段「百八坂」 · 2023年2月2日 8:07 PM

[…] 標高277メートル倶利伽羅峠の頂上付近にある「倶利伽羅公園」の駐車場から北方面の「国見山」を眺めると傾斜上に石段が見える。この国見山(くにみやま)と倶利伽羅公園(くりからこうえん)には、かつて城が存在した。その城は、堡(ほう)レベルであったが、倶利伽羅城(くりからじょう)と呼ばれた。国見山と呼ばれる山の急斜面にある石段を登りきると倶利伽羅「五社権現」に辿り着く。権現(ごんげん)とは、仏や菩薩が神など仮の姿で現れた神号であるが、倶利伽羅五社権現は、もともと「四社権現」であった。四社とは、資料あまりなく唯一の手掛かりとなる「津幡町の神社と祭神の分析―倶利伽羅谷編(河北潟湖沼研究所河北潟歴史委員会)」PDFを参考にすると以下記載がある。・峰御前八幡社 応仁天皇(おうじんてんのう)・愛宕社(あぬごしゃ) 軻遇突智命(かぐつちのみこと)・白山社 菊理媛命(くくりひめのみこと)・大峰座主社 国常立尊(くにのとこたちのみこと)この四社に長楽寺の現在の手向神社の石堂神殿を加えて五社権現となる。五社権現は、加賀藩四代藩主「前田綱紀 」(まえだつなのり)が寄進したものである。 […]

津幡町笠野「鳥越城」と佐々成政の戦い · 2023年2月19日 6:18 PM

[…] 現在の津幡町「鳥越城」(とりごえじょう)は、白山市の「鳥越城」とは異なる。いずれも、一向一揆勢力の砦としての歴史を持つが、もともとは、「鳥越弘願寺」(とりごえぐがんじ)の支城的な役割を担っていた。戦国史としては、前田佐々抗争における能登末森城(のとすえもりじょう)の戦いに登場。1584年(天正12)9月、佐々成政(さっさなりまさ)は、越中富山城から沢川・梨木を経て現在の宝達志水町の坪井山に着陣後「末森城」を攻めた。成政の家臣「佐々平左衛門政元」(さっさへいざえもんまさもと)が末森城本丸まで迫るなど、佐々軍優勢のまま戦いは進んだ。しかし、末森城(すえもりじょう)陥落間際で前田利家が間一髪まに合い佐々軍を撃退。あと一歩のところで末森城攻めに失敗した成政は、津幡方面へ敗走。この不利な戦いを完全な負け戦にしたくない成政は、途中村々を焼きながら起死回生となる津幡城(つばたじょう)襲撃を試みる。ところが、物見の報告によると津幡城とその周辺には、前田の軍旗が多数なびいているとのこと。遅れてやってきた前田軍の援軍と考えた成政は、急遽「鳥越城」に矛先を変える。なんとしても、せめて一槍でも入れたい成政。そこに吉報が入る。「鳥越城の城兵が金沢へ撤退」鳥越城を守っていた「吉沢嘉兵衛」「目賀田又右衛門」「丹羽源十郎」が末森城が落ちたとの誤報を信じてしまったのである。しめたとばかりに、成政は鳥越城へ向かう。敗走途中でありながらも、もぬけの殻となっていた鳥越城を奪取。一方的な敗戦となりうる状況の中での面目躍如といったところである。吉沢達の鳥越城撤退は、末森城が陥落したという流言が原因であったと伝えられるが真相はわからない。 […]

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