1.マイナーな津幡の史跡「倶利伽羅城」「倶利伽羅堡」を、軍事的観点から見る

倶利伽羅城(くりからじょう)と倶利伽羅堡(くりからほう)の存在。
河北郡史にも「倶利伽羅堡址 今其地に詳にせず・・」とある。
倶利伽羅城は、現在の倶利伽羅公園と倶利伽羅五社権現がある国見山に存在したとされる。
倶利伽羅の東には、小矢部方面に源氏ヶ峰城が存在し、当然頂上に近い倶梨伽羅には、城があっても何ら不思議ではない。
しかし、「倶利伽羅峠の戦い」のあった1100年代は、平維盛が猿ケ馬場に本陣を置いたことから、特に城としての機能ではなく、砦レベルに過ぎないと想定出来る。
また、1500年代の豊臣秀吉の佐々成政征伐「富山の役」には、成政が国境封鎖をしたと越能賀三州誌に記録が残る。
以上のことから、倶利伽羅にあった要塞は、倶利伽羅城ではなく、正式には、倶利伽羅堡であったと思われる。
佐々成政は
倶利迦羅不動寺手向神社がある「倶利伽羅堡」と田近越の脇道を押さえる「一乗寺城」で加賀越中国境を固める。
対する
前田利家は、津幡城、朝日山城を固めた。

2.倶利伽羅における砦の重要性

上記に記載した、越能賀三州誌における佐々と前田の争いにおいて、佐々成政が国境封鎖をしたとあるように、倶利伽羅における砦機能は非常に重要であったと考えられる。
1584年(天正12)に朝日山城急襲に失敗した成政は、さらに国境強化を始める。
倶利伽羅城の強化は、そのタイミングであり、佐々平左衛門と野村主水が入る。
成政は、いずれ前田利家の拠点である金沢「金沢城」を落とさなければならない。
流石に、百万国近い力を持つ前田の金沢を真っ向から攻めるわけにはいかず、まずは、能登との分断を図る必要があった。
利家も、金沢から七尾まで距離が遠くあり、丁度中間にあたる現在の羽咋、宝達に小城を改築し「能登末森城」を築く。
その後、有名な末森城の戦いが起きるわけであるが、成政は、末森城を落とすことで能登との分断を図り、その上で、金沢へ総攻撃を仕掛けるつもりであったのだろう。
その時に、加賀、越中を繋ぐ街道「北陸道」上にある倶利伽羅峠を押さえておかなければ戦略上破綻してしまう。
ゆえに、倶利伽羅城は、砦レベルながらに非常に重要な城であったことが窺える。

倶利伽羅城跡から小矢部方面を望む

3.倶梨伽羅村の歴史

旧倶梨伽羅村は、明治に倶利伽羅村(くりからむら)・山森村(やまもりむら)・九折村(つづらおりむら)・河内村(かわちむら)・上野村(うわのむら)・坂戸村(さかどむら)・越中坂村(えっちゅうざかむら)・刈安村(かりやすむら)・富田村(とみたむら)・原村(はらむら)・竹橋村(たけはしむら)が合併することで誕生した。
その後、さらに合併を繰り返し、1957年に津幡町に編入し現在に至る。
倶利迦羅不動寺を訪れる場合、IRいしかわ鉄道「倶利伽羅駅」で下車。
歩くとかなり大変であるが、たくさんの観光客がハイキング感覚で登り降りする姿を見かける。

津幡町「字倶利伽羅」


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