1.国見山に鎮座する倶利伽羅「五社権現」とは?

標高277メートル倶利伽羅峠の頂上付近にある「倶利伽羅公園」の駐車場から北方面の「国見山」を眺めると傾斜上に石段が見える。
この国見山(くにみやま)と倶利伽羅公園(くりからこうえん)には、かつて城が存在した。
その城は、堡(ほう)レベルであったが、倶利伽羅城(くりからじょう)と呼ばれた。
国見山と呼ばれる山の急斜面にある石段を登りきると倶利伽羅「五社権現」に辿り着く。
権現(ごんげん)とは、仏や菩薩が神など仮の姿で現れた神号であるが、倶利伽羅五社権現は、もともと「四社権現」であった。
四社とは、資料あまりなく唯一の手掛かりとなる「津幡町の神社と祭神の分析―倶利伽羅谷編(河北潟湖沼研究所河北潟歴史委員会)」PDFを参考にすると以下記載がある。
・峰御前八幡社 応仁天皇(おうじんてんのう)
・愛宕社(あぬごしゃ) 軻遇突智命(かぐつちのみこと)
白山社 菊理媛命(くくりひめのみこと)
・大峰座主社 国常立尊(くにのとこたちのみこと)
この四社に長楽寺の現在の手向神社の石堂神殿を加えて五社権現となる。
五社権現は、加賀藩四代藩主「前田綱紀 」(まえだつなのり)が寄進したものである。

倶利伽羅「五社権現」

2.倶利伽羅頂上108段の石段「百八坂」

国見山の108段の石段「百八坂」を登る事により、人間のもつ108の煩悩を石段を踏むことによって消滅させ、また、清浄な身となり五社権現に礼拝する事が出来るという。
この石段は、倶利伽羅の観光スポット「倶利伽羅権現石殿附石段」として大人気である。
この石段を信るのは、かなりきつい。
しかし、煩悩を消滅させながら登りきると、美しい景色を見ることが出来る。
晴れた日には、白山、立山、日本海はもとより、富山方面の二上山まで望むことが出来る。
まだ見たことは無いが、富山湾まで見えるらしい。
この日は、4月中旬で丁度「八重桜が咲いていた」
この頂上に存在した倶利伽羅城。
ここは、見張り台が建てられていたと伝えられる。
確かに晴れた日には、猿ケ馬場(現在の平家本陣跡)から遥か先を監視出来るほか、遠く砺波方面に移動する大軍を捉えることが可能だ。
倶利伽羅峠は歴史的にも地理的にも興味深い地であり、まさに「峠」であることを改めて実感した。
ちなみに皇室宮家もこの地を訪れた「賀陽宮殿下御休憩所」の石碑が建っている。

108段の石段「百八坂」

2件のコメント

倶利伽羅城と倶利伽羅堡の謎を解く · 2022年4月29日 8:01 PM

[…] 倶利伽羅城(くりからじょう)と倶利伽羅堡(くりからほう)の存在。河北郡史にも「倶利伽羅堡址 今其地に詳にせず・・」とある。倶利伽羅城は、現在の倶利伽羅公園と倶利伽羅五社権現がある国見山に存在したとされる。倶利伽羅の東には、小矢部方面に源氏ヶ峰城が存在し、当然頂上に近い倶梨伽羅には、城があっても何ら不思議ではない。しかし、「倶利伽羅峠の戦い」のあった1100年代は、平維盛が猿ケ馬場に本陣を置いたことから、特に城としての機能ではなく、砦レベルに過ぎないと想定出来る。また、1500年代の豊臣秀吉の佐々成政征伐「富山の役」には、成政が国境封鎖をしたと越能賀三州誌に記録が残る。以上のことから、倶利伽羅にあった要塞は、倶利伽羅城ではなく、正式には、倶利伽羅堡であったと思われる。佐々成政は、倶利迦羅不動寺、手向神社がある「倶利伽羅堡」と田近越の脇道を押さえる「一乗寺城」で加賀越中国境を固める。対する前田利家は、津幡城、朝日山城を固めた。 […]

津幡の花見スポット「倶利伽羅公園」と「倶利迦羅さん八重桜まつり」 · 2022年11月2日 6:17 PM

[…] 当園には、大友池主(おおとものいけぬし)が大伴家持(おおとものやかもち)に送った歌(万葉集巻17)の碑、今石動城代「篠島織部清了(ささじまおりべきよのり)」顕彰碑が存在する。特に、倶利伽羅公園「駐車場」の前にある、国見山の五社権現には大変であるが上る価値あり。 […]

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