1.佐々成政と富山城の歴史

富山城跡が存在する現在の富山市は、東西に延びる北国街道(現在の国道8号線を担う)から富山を起点として飛騨街道(現在の国道41号線を担う)へと続く越中の要衝である。
西に神通川、東に常願寺が流れ、それを天然の要害とする。
戦国期に越中守護職「神保長職」(じんぼうながもと)が築き、その後、越後の上杉謙信との争いの中、長職の子「神保長住」(じんぼうながずみ)そして、越飛戦国物語の主人公「佐々成政」と続く。
本能寺の変にて織田信長がこの世を去り、豊臣秀吉を中心に時代が動き始めた。
当時、秀吉の格上であった丹羽長秀、細川幽才、そして、成政の盟友であった前田利家までもが秀吉の軍門に下った。
プライドの高い成政に、秀吉の配下となる選択肢はなく、後に「前田・ 佐々戦争」と呼ばれる抗争を加賀・能登・越中で繰り広げる。
また成政は、秀吉、利家だけではなく、越中の上杉景勝とも激しく戦った。
東西に敵を抱えた成政は、数少ない味方であった「神保長住」、飛騨松倉城の城主「姉小路頼綱」、飛騨帰雲城の城主「姉小路頼綱」と共に戦い続けたが富山城にて身動きが取れない状況まで窮地に陥る。
その後「さらさら越え」にて、徳川家康に最後の望みを託すが失敗。
家康の協力を得ることなく、富山の役が本格化する。
秀吉方が白鳥城安田城大峪城から富山城を睨みを利かせ成政を圧迫。
衆寡敵せず、1585年(天正13)遂に成政が降伏し富山城が事実上の陥落となった。

佐々成政の居城「富山城」

2.富山城址公園と富山城の巨石

富山城を中心に広大な敷地を誇る富山の観光スポット「富山城址公園」。
富山城址公園(とやまじょうしこうえん)には、富山城跡に設置された「富山市郷土博物館」、東洋の古美術等を展示した「佐藤記念美術館」、「松川茶屋」など1日と通して富山の観光を楽しむ事が出来る施設が多数ある。
石垣と共にシンボルとなっている富山城の天守閣(模擬天守閣)は、ライトアップされ、桜の花見シーズンは多くの花見客で賑わいを見せる。
そして、有名な富山城の巨石である。
富山城址(富山県富山市丸の内 )の本丸鉄門石垣(大手筋)の通路に埋め込まれた巨石「鏡石」。
石の表面が鏡のように平らなことから鏡石と呼ばれるようになったが、要は、領主の権威を見せつけるものである。
大阪城、肥前名護屋城は、秀吉の権威と権力の象徴であり、漫画「北斗の拳」の聖帝サウザーの聖帝十字陵も同じく権威の象徴である。
富山の役以降、富山城の主は佐々成政から前田利長へと代わるが、この鏡石は、前田利長が富山城を改築した時のもと伝わる。
豊臣家、そして、徳川家に対する配慮から、城レベルではなく、石垣レベルとなったのが非常に前田家らしい。
また、一説には、富山城は、瀧廉太郎「荒城の月」の着想の元になった城と噂され、富山城址公園の堀を周る散策するコースが整備されている。
巨石が使われた、虎口枡形の石垣も学術的にも貴重な存在であった。

越飛戦国物語の表紙にもなった富山城の巨石「鏡石」

越飛戦国物語~諦念、伝わらぬ佐々成政の想い


5件のコメント

富山の役における白鳥城の出城、富山「安田城」と「安田城跡資料館」 · 2022年2月27日 12:37 PM

[…] 富山県の越中安田城は、1585年(天正13)、豊臣秀吉の越中「佐々成政」征伐における「富山の役」の際、富山城牽制を目的に築城した出城である。 豊臣軍の前衛本陣「白鳥城」を拠点に、安田城、大峪城が富山城に圧をかけた。安田城(富山県富山市婦中町安田)は、城の東側を流れる井田川から水を引き込み周囲に小規模であるが堀が築かれたが、富山の役の後は、ほとんど出城としての利用価値はなくなり廃城となった。 […]

熾烈な籠城戦「魚津城の戦い」で有名な魚津城。 · 2023年1月28日 7:04 PM

[…] 軍神「上杉謙信」がこの世を去り、本格的な越中東部への侵攻を開始した織田信長。信長は、北陸侵攻部隊「柴田勝家」を総大将に魚津侵攻を命じる。その越後侵攻軍の中には、越中富山城の城主「佐々成政」、能登小丸山城の城主「前田利家」、加賀尾山城の城主「佐久間盛政」も加わり大軍勢であった。上杉方は、揚北三人衆(あがきたさんにんしゅう)と呼ばれた「中条景泰」(なかじょうかげやす)を主に、約三千人の城兵が魚津城を守る。戦の序盤は、柴田勝家率いる織田の大軍を見事に防いだ越後軍であったが、敵は大軍。頼りの上杉景勝率いる本隊も、越後本国が織田軍に包囲され迂闊に救援に迎えない。限界の魚津城の越後軍は、降伏することを選ばずに死を覚悟する。結果、中条景泰をはじめ、色部勝長など数十人の大将格が魚津城にて自刃することで織田軍が勝利する。 […]

富山の雄山神社の歴史と岩峅の前立社壇(まえだてしゃでん) · 2023年1月29日 10:26 AM

[…] 霊峰立山を神の山とする富山県の雄山神社(おやまじんじゃ)。霊峰立山を神山と仰ぎ、雄山神社は、「立山頂上峰本社」「芦峅中宮祈願殿」「岩峅前立社壇」の三社殿から成り立つ。立山頂上峰本社(たてやまじょうじょうみねほんしゃ)は、北アルプス立山の主峰雄山の岩頭に鎮座する。三千メートルを超す北アルプス立山に鎮座する立山頂上峰本社は、開山が夏季に限定されることから、なかなか簡単に参拝するというわけにはいかない。芦峅中宮祈願殿(あしくらちゅうぐうきがんでん)は、立山信仰の里である芦峅寺(あしくらじ)に鎮座し富山県中新川郡立山町芦峅寺に鎮座し、立山博物館が隣接する。そして、前立社壇(まえだてしゃでん)は、富山県中新川郡立山町の岩峅寺(いわくらじ)にあり、立山の前に立つ社であることから「前立社壇」と呼ばれる。立山登拝の際には、麓である「岩峅前立社壇」にて身の穢れや罪を祓いスタートする。前立社壇は、文武天皇、後醍醐天皇の勅願所であり、源頼朝はじめ、佐々成政、前田利家など武門の信仰も篤かったとされる。特に、越中富山城の城主であった「佐々成政」は、尾山神社前立社壇公式サイトによると1583年(天正11年)に本殿を造営・改修したとされることから、戦国期における「越中の役」で芦峅寺が焼き払われたのは、その後の1585年(天正13)の時か。この奥深い地にも豊臣方の手が伸びたことが想像できる。御祭神は、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)、立山大権現雄山神、本地(阿弥陀如来)天手力雄神(あめのたぢからおのかみ)、刀尾天神剱岳神、本地(不動明王)である。 […]

前田利常の想い、前田利長の菩提寺「瑞龍寺」高岡市 · 2023年1月29日 9:10 PM

[…] 曹洞宗高岡山「瑞龍寺」(瑞龍寺)の歴史は、江戸期の加賀藩初代「前田利長」公の菩提寺として二代「前田利常」によって建立されたことに始まる。前田利長(まえだとしなが)は、加賀藩祖「前田利家」の嫡男として加賀百万石の太守となり、加賀藩の礎を築いた大名である。男子に恵まれなかった利長は、異母弟である利常(としつね)を養嗣子とし次期藩主として迎えた。隠居した利長は、1605年(慶長10)金沢城から富山城へ移ったが、1609年(慶長14)火災が原因による富山城焼失により一時的に魚津城に入る。魚津城にて高岡城築城を進めた利長であるが、同年に「高岡城」入りした事が記録が残される。利長は、1614年(慶長19)に病死するまでの約5年間、高岡で過ごしたことになる。利長の死後、加賀藩二代「前田利常」が利長のために広大な寺域を誇る高岡山『瑞龍寺』を創建するが、利長への想いの強さが伺える。そして、瑞龍寺創建の指揮を執ったのが、名匠「山上善右衛門嘉広」であり、善右衛門は、瑞龍寺のほかにも羽咋の「妙成寺」、富山県上市町の「日石寺」、小松の「那谷寺」などを手掛けた事でも知られた。国宝に指定された山門、仏殿、法堂、そして、国の重要文化財に指定された総門など素晴らしい寺院は一見の価値あり。また余談ではあるが、この寺院の隠れネタとしては、東司(とうす)とは、寺院における便所のことであるが、烏瑟沙摩明王が祀られているのも面白い。 […]

海岸線に築かれた越中・氷見の要塞「阿尾城」 · 2023年1月29日 10:13 PM

[…] 九州肥後から流れ越中・氷見城主となった「菊池武勝」。越中において当初は、阿尾城主として上杉謙信の配下となり、織田信長(おだのぶなが)、佐々成政(さっさなりまさ)、前田利家(まえだとしいえ)と次々と主君を代えながらも阿尾城主としての地位を守り抜く。前田、佐々抗争では、豊臣秀吉と争った富山城の城主「佐々成政」から金沢城の城主「前田利家」に鞍替えし、前田慶次郎(まえだけいじろう)など前田軍を城へ迎え入れた。越後の上杉景勝(うえすぎかげかつ)との戦いから領国経営に時間をかける事が出来なかった成政。金沢移封後、隣国における軍事行動が少なく、在地勢力の懐柔に余裕があった利家の差がここに出たのであった。菊池武勝、安信親子は、前田家に従う事で氷見を安堵されるが、安信の死後間もなく阿尾城は、廃城となる。菊池一族も正式に前田家の家臣となり、ここで阿尾城主としての役割も終えることになる。 […]

コメントを残す

アバタープレースホルダー

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です