1.幻の城「帰雲城跡」と未解決の歴史

1586年(天正13)の天正地震により、帰雲山が崩壊。
そして、その帰雲山に聳え立っていたと伝わる城。
それが、帰雲城(かえりくもじょう)である。
飛騨帰雲城は、現在も採掘調査が続けられているが、未だに正確な情報がつかめないために、地元、岐阜県白川郷では、幻の城「帰雲城」として脚光を浴びている。
幻の帰雲城は、岐阜県大野郡白川村三方崩山の下「保木脇」(ほきわき)にあったとか謎のままであるが、この城の主は、内ヶ島氏理ということまでは分かっている。
現在は、保木脇に「帰雲城趾の碑」と「帰雲城埋没地の案内板」建っているが、景観がよいだけに未解決の歴史を空想するだけでも一興である。
余談であるが、石垣には姫の横顔、武将の面影が見られ、神水が湧き出る。

保木脇の「帰雲城趾の碑」

帰雲城の主「内ヶ島氏理」

内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ)は、飛騨の国人として「白川郷」を中心に繁栄した小大名である。
しかし、本能寺の変で信長がこの世を去り、後継レースを勝ち抜いた羽柴秀吉が織田家臣で最後の敵、越中の佐々成政征伐に乗り出すことで、内ヶ島家は揺れた。
内ヶ島家は、豊臣秀吉の佐々成政征伐「富山の役」では、佐々成政に付き秀吉方の将である越前大野城主「金森長近」と戦う。
当時は、佐々成政に従い氏理は、飛騨を留守にしていたため、代わりに荻町城主「山下氏勝」が帰雲城に入っていた。
その後、帰雲城の有力支城である「向牧戸城」が落城したことで降伏。
金森長親配下として所領安堵されるが、天正地震の被害を受け死亡。
百年以上「白川一帯」を支配した内ヶ島家が断絶する。
しかし、内ヶ島一族でもあった山下時慶・山下氏勝父子は生き延び、特に、氏勝は有能にて徳川家に名古屋城築城を献策したと伝えられる。

内ヶ島氏の居城「帰雲城跡」

天正地震で沈んだ帰雲城の埋蔵金伝説

本当に、ここに城があったのか?
この帰雲城は、天正十三年に起こった地震により、一族もろとも地の中に沈んだとされる。
現在の白川村保木脇説が一般的であり、有力説である。
内ヶ島氏の領内に金山があったことから、埋蔵金伝説も残る。
雲が帰ると伝えられるほど雄大な、後ろの山肌を眺め想像してみるとよい。
2022年の年末には、テレビ愛知にて、黄金伝説が語り継がれる帰雲城を追ったTV番組「消えた戦国の城」の再放送が行われたらしい。
私は、本放送を拝見させていただいたが、今後の続編を期待したい。
帰雲城は、「越飛戦国物語~第1章・埋蔵金の行方!金森長近、向牧戸城攻め」にて登場します。

帰雲神社

1件のコメント

佐々成政の居城「富山城」の歴史と巨石「鏡石」 · 2023年1月30日 6:32 PM

[…] 富山城跡が存在する現在の富山市は、東西に延びる北国街道(現在の国道8号線を担う)から富山を起点として飛騨街道(現在の国道41号線を担う)へと続く越中の要衝である。西に神通川、東に常願寺が流れ、それを天然の要害とする。戦国期に越中守護職「神保長職」(じんぼうながもと)が築き、その後、越後の上杉謙信との争いの中、長職の子「神保長住」(じんぼうながずみ)そして、越飛戦国物語の主人公「佐々成政」と続く。本能寺の変にて織田信長がこの世を去り、豊臣秀吉を中心に時代が動き始めた。当時、秀吉の格上であった丹羽長秀、細川幽才、そして、成政の盟友であった前田利家までもが秀吉の軍門に下った。プライドの高い成政に、秀吉の配下となる選択肢はなく、後に「前田・ 佐々戦争」と呼ばれる抗争を加賀・能登・越中で繰り広げる。また成政は、秀吉、利家だけではなく、越中の上杉景勝とも激しく戦った。東西に敵を抱えた成政は、数少ない味方であった「神保長住」、飛騨松倉城の城主「姉小路頼綱」、飛騨帰雲城の城主「姉小路頼綱」と共に戦い続けたが富山城にて身動きが取れない状況まで窮地に陥る。その後「さらさら越え」にて、徳川家康に最後の望みを託すが失敗。家康の協力を得ることなく、富山の役が本格化する。秀吉方が白鳥城、安田城、大峪城から富山城を睨みを利かせ成政を圧迫。衆寡敵せず、1585年(天正13)遂に成政が降伏し富山城が事実上の陥落となった。 […]

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