帰雲城の支城「向牧戸城」

飛騨「向牧戸城」の歴史は、飛騨「帰雲城」の歴史より古い。
十五世紀後半、足利義政の命により信濃より進出した内ヶ島為氏が、白川郷を支配し「向牧戸城」を築城。
後に内ヶ島氏は、本城を新しく築城した帰雲城(かえりくもじょう)へ移すことになるが、それ以前は、向牧戸城(むかいまきどじょう)が本城として機能していた。
向牧戸城跡は「荘川であいの森」(高山市荘川町牧戸字城山)の敷地内に存在し、本丸には、展望施設が設置され公園としても安心して楽しめる空間である。
静かな向牧戸城址から想定されるように、織田信長、佐々成政に従い戦国末期までは、安定した領国経営が続いた。
しかし、織田信長が本能寺の変にて倒れ、豊臣秀吉と佐々成政の間に一触即発の気配が漂い始めた。
そして、佐々成政への旗幟を鮮明にすることで、全てが瓦解し始める。
豊臣秀吉の越中征伐「富山の役」では、白川郷の総帥「内ヶ島氏理」は、佐々成政に従い飛騨を留守にしていた。
秀吉方の将で越前大野城の城主「金森長近」の侵攻に備えた飛騨留守居役の荻町城主「山下氏勝」、向牧戸城主( むかいまきどじょう)「川尻氏信」は大きく揺れた。
氏理が留守
である本城「帰雲城」を守る山下氏勝に対し、向牧戸城主である川尻氏信は、金森長近に内応した。
本来堅城であったはずの向牧戸城が落城したことにより、内ヶ島氏理は長近に降伏する

向牧戸城・本丸の展望施設

幸運か?不運か?川尻氏信

金森長親に降伏した内ヶ島氏理は、帰雲城にて金森方の使者を迎え入れる準備に入った。
飛騨白川郷侵攻中の金森長近に内応した川尻氏信は、金森方との和議成立を機に帰雲城で催された宴会には当然声がかからなった。
ばつの悪い氏信であったが、突然の出来事が起きる。
宴の夜に地震が発生。
帰雲城が幻の城と呼ばれる所以となる「天正地震」である。
その地震により帰雲城は埋没。
宴に参加していなかった氏信は、不幸中の幸いか、死を免れることが出来た。
九死に一生を得た氏信は、不運であったか?また幸運であったか?
氏信の与えられた知行は、百石ばかりであったことから、裏切りの恩賞としては冷遇と考えてよいだろう。
当然の如く、金森長親からは、不信感をもたれ続けたことは、容易に想像がつく。
結果、川尻家は、その後の江戸期に帰農することになった。

川尻家の墓

向牧戸城は、「越飛戦国物語~第1章・埋蔵金の行方!金森長近、向牧戸城攻め」にて登場します。


1件のコメント

埋蔵金伝説と天正地震で沈んだ伝説の飛騨「帰雲城」 · 2023年1月22日 6:06 PM

[…] 内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ)は、飛騨の国人として「白川郷」を中心に繁栄した小大名である。しかし、本能寺の変で信長がこの世を去り、後継レースを勝ち抜いた羽柴秀吉が織田家臣で最後の敵、越中の佐々成政征伐に乗り出すことで、内ヶ島家は揺れた。内ヶ島家は、豊臣秀吉の佐々成政征伐「富山の役」では、佐々成政に付き秀吉方の将である越前大野城主「金森長近」と戦う。当時は、佐々成政に従い氏理は、飛騨を留守にしていたため、代わりに荻町城主「山下氏勝」が帰雲城に入っていた。その後、帰雲城の有力支城である「向牧戸城」が落城したことで降伏。金森長親配下として所領安堵されるが、天正地震の被害を受け死亡。百年以上「白川一帯」を支配した内ヶ島家が断絶する。しかし、内ヶ島一族でもあった山下時慶・山下氏勝父子は生き延び、特に、氏勝は有能にて徳川家に名古屋城築城を献策したと伝えられる。 […]

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