1.飛騨高山の戦国史「鍋山城」とは

飛騨の戦国史において飛騨鮎崎城飛騨松倉城などと共に太閤秀吉の「富山の役」において登場する「鍋山城」。
鍋山城(なべやまじょう)は、現在の岐阜県高山市における主に漆垣内町と松之木町に跨る鍋山(なべやま)にその姿を見せた。
山頂が2つとも3つとも数えられるこの鍋山に、本丸と出丸を構える。
十六世紀半ばに築城された「飛騨鍋山城」は、鍋山豊後守安室(なべやまあんむろ)が築城したと伝わる。
三木家家臣の平野右衛門尉の子「平野安室」(平野豊後守安室)が、鍋山城を築き「鍋山安室」と称したという。
その後、姉小路自綱(あねこうじよりつな)の策略に嵌り、自綱の弟「三木顕綱」(みきあきつな)を養子に迎えたことで、姉小路氏に乗っ取りを許してしまう。
養子に入った顕綱は、鍋山一家を毒殺、または追放したのであった。
乗っ取りの張本人である顕綱も、自綱から謀反の疑いをかけられ暗殺されるという経緯がある鍋山城。
以降、自綱の次男「秀綱」、三男「季綱」、越中に侵攻した「金森長近」と城主が移り変わる。
※ 金森長近は、後に飛騨高山城を居城とするため鍋山城は廃城となった。
飛騨鍋山城は、姉小路氏(後の三木氏)の防衛線の一つとして木曽街道を押さえる役割を果たしたのではないか。
江戸期に入り、越中氷見から信濃松本へ「ブリ」が運び込まれた。
北アルプス山脈超えという難関を超えていく当時の運搬は命がけであり、このルートは、現在、「ぶりノーベル出世街道」ぶり街道」と呼ばれている。

姉小路自綱、顕綱兄弟の謀略「飛騨鍋山城」

2.姉小路氏と三木氏の血塗られた歴史

藤原北家・閑院流三条家の庶流である姉小路家(あねこうじけ)。
そして、藤原北家魚名流と伝えられる三木家(みきけ)。
この両家は、飛騨の戦国史においては、欠かすことが出来ない一族である。
飛騨の戦国史を複雑にした原因が、三木氏の姉小路家乗っ取りである。
まずは、姉小路家であるが、藤原済時(小一条流)が京の姉小路に居を構えたことで、その後、姉小路を称することとになった姉小路家。
宗家の小島家を主に古川家、向家と三派に分かれるが、小一条流姉小路「宗家小島家」と小一条流姉小路「古川家」が争った「飛騨の乱」、三木氏が姉小路「宗家小島家」の当主「姉小路高綱」を殺害するなど、姉小路宗家の勢力が揺らぎ始めた。
そこに暗躍したのが三木家の三木良綱(みきよりつな)である。
三木良綱は、以降、「良綱」→「良頼」→「嗣頼」と改名するが、1556年(弘治2)姉小路高綱(あねこうじたかつな)を殺害したのは、良綱であった
1559年(永禄2)良頼と改名した「三木良頼」(みきよしより)は、宗家小島家の混乱に漬け込み嫡男の三木頼綱(みきよりつな)を姉小路家に送り込む。
さらに飛騨国司として正式な小一条流姉小路家の継承を朝廷に認めさせることに成功。
ここで、小一条流姉小路家が滅亡するとともに、戦国大名としての姉小路家が誕生するのであった。
その後は、飛ぶ鳥を落とす勢いの良頼は、関白「近衛前嗣」から「嗣」の偏諱を受け三木嗣頼(みきつぐより)に改名。
姉小路宗家乗っ取り時点で、嗣頼は、姉小路を名乗っていたそうであるが、実際には、頼綱が戦国姉小路家の初代となると思われる。
そして、自綱と改名した姉小路頼綱は、戦国姉小路家初代「姉小路自綱」として、武田信玄、上杉謙信、織田信長を立ち回りながらも、富山の役における金森長近の侵攻(越飛戦国物語・②飛騨の支配者!三木自綱こと、姉小路頼綱)により滅亡の道へと向かっていくのであった。


1件のコメント

飛騨松倉城攻めの本陣とした三木自綱の「鮎崎城」 · 2023年1月24日 10:22 PM

[…] 鮎崎城(あゆさきじょう)は、飛騨鍋山城(ひだなべやまじょう)と共に、豊臣秀吉の佐々成政征伐「富山の役」に登場する飛騨の城である。佐々成政征伐における飛騨侵攻軍総大将「金森長近」が三木自綱の次男「秀綱」が籠る「飛騨松倉城」攻めの拠点とした城であり、城跡からは、鍋山城、松倉城、高山城が一望出来る地である。飛騨鮎崎城跡の北山公園からは、高山を一望。カップルの聖地として人気があるらしい。富山の役以前の姉小路 頼綱(あねがこうじよりつな)こと三木自綱(みきよりつな)は、飛騨の関ヶ原の戦いと謳われた「八日町の戦い(ようかまちのたたかい)」で飛騨統一を果たした戦国大名である。自綱は、織田信長の配下となり、越後上杉攻めを担う佐々成政の配下にて、飛騨における親上杉派と戦うことで勢力拡大に成功。しかし、後ろ盾であった織田信長が本能寺の変にて世を去り、代わって、羽柴秀吉が台頭。秀吉は、佐々成政を討つべく越中へ出陣。富山の陣となるわけだが、自綱は、佐々成政と共に秀吉軍と戦う。秀吉配下の金森長近の攻撃にさらされた自綱が籠る高藤城も劣勢となり降伏。この時に、鮎崎城も引き渡されたと思われる。そして、飛騨の梟雄「三木自綱」の野望は、ここに潰えたのであった。その後、金森軍が飛騨松倉城攻めのため鮎崎城に陣を構えたが、この時点では、既に鮎崎城を含む高堂城、広瀬城、鍋山城などが落城していたものと思われる。 […]

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