1.金森長近の飛騨における新居城「高山城」

飛騨「高山城」(ひだたかやまじょう)は、金森長近(かなもりながちか)が現在の岐阜県高山市に築城した城である。
天守の位置など多少異なるものの、姉小路自綱(三木自綱)時代の「天神山城」を改築し飛騨「高山城」(ひだたかやまじょう)を新しく築城。
1585年(天正13)、豊臣秀吉による越中「佐々成政」征伐において、越前大野城の城主であった長近は、秀吉の命に従い越前大野から飛騨国へ侵攻を開始した。
内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ)の帰雲城(かえりくもじょう)を攻略した金森軍は、飛騨高山へ進軍「飛騨松倉城」「飛騨鮎崎城」「飛騨鍋山城」を攻略。
飛騨の支配者であった姉小路自綱(あねこうじよりつな)を討ち取り佐々成政の後方攪乱に成功。
成政が降伏し「富山の役」が終結すると、長近は、秀吉から転封の命を受け飛騨三万三千石を有する大名となる。
間もなく「天神山城」を改築し「高山城」を、新らしく築城した。
高山城(たかやまじょう)は、標高約680Mの臥牛山(巴山)現在の城山に築かれた城で、本丸には、石垣も残りその他、曲輪、堀、土塁などの遺構も所々に残っている。
長親は、織田信長の築城術に影響されたとし、越前大野城同様、規模こそ小さいが、そこそこの天守を採用している。
又、城下町も越前大野と飛騨高山は、城下町も何処となく似ている。
天守を訪れるには、かなりの体力が必要である。
私は、子供を連れて上ったこともあるが、なかなかに厳しかった。
岐阜の城廻は、難儀である。

飛騨高山城址「天守跡」

2.信長から秀吉へ、金森長近の憂鬱

織田信長に仕えた金森長近は、桶狭間の戦いの功にて信長から「長」の一字を賜わり、また、赤母衣衆に名を連ねるなど信長の元で活躍をする。
信長の元で最も頭角を表した代表ともいえるのが「羽柴秀吉」、後の豊臣秀吉であるこは有名であるが、佐々成政、前田利家に続き、金森長近も頭角を表した一人である。
信長の信頼を得るのは至難の業とされる中、長近は、織田軍団の中で出世を果たしていく。
しかし、本能寺の変にて信長がこの世を去り、代わって秀吉が台頭。
もともと織田政権においては、格下の身であった秀吉に膝を屈した長近の気持ちは、いかばかりであったか。
佐々成政、前田利家と同様、長近の憂鬱が伝わってくる。

金森長近が形成した現在の観光都市「高山」

3.高山城の金森長近像

現在の高山城は、高山城址公園の駐車場に駐車し、そこから歩いて20分程度上る。
高山城「城山公園」の二の丸公園には金森長近像が建ち、知的な越前大野の長近像とは異なり騎馬像で凛々しい。
金森法印と呼ばれる晩年における活躍印象が強い長近であるが、桶狭間の戦い、長篠の戦い、越前大野への侵攻、そして、飛騨高山への侵攻と、戦巧者であり武勇の面においても秀でていた。
戦国の世に、信長、秀吉、家康の時代を生き抜いた名将「金森長近」。
私は、越前大野の長近像より騎馬像の方が個人的にお気に入りである。

金森長近公之像


1件のコメント

飛騨鍋山城と三木家の血塗られた歴史 · 2023年1月26日 1:11 PM

[…] 飛騨の戦国史において飛騨鮎崎城、飛騨松倉城などと共に太閤秀吉の「富山の役」において登場する「鍋山城」。鍋山城(なべやまじょう)は、現在の岐阜県高山市における主に漆垣内町と松之木町に跨る鍋山(なべやま)にその姿を見せた。山頂が2つとも3つとも数えられるこの鍋山に、本丸と出丸を構える。十六世紀半ばに築城された「飛騨鍋山城」は、鍋山豊後守安室(なべやまあんむろ)が築城したと伝わる。三木家家臣の平野右衛門尉の子「平野安室」(平野豊後守安室)が、鍋山城を築き「鍋山安室」と称したという。その後、姉小路自綱(あねこうじよりつな)の策略に嵌り、自綱の弟「三木顕綱」(みきあきつな)を養子に迎えたことで、姉小路氏に乗っ取りを許してしまう。養子に入った顕綱は、鍋山一家を毒殺、または追放したのであった。乗っ取りの張本人である顕綱も、自綱から謀反の疑いをかけられ暗殺されるという経緯がある鍋山城。以降、自綱の次男「秀綱」、三男「季綱」、越中に侵攻した「金森長近」と城主が移り変わる。※ 金森長近は、後に飛騨高山城を居城とするため鍋山城は廃城となった。飛騨鍋山城は、姉小路氏(後の三木氏)の防衛線の一つとして木曽街道を押さえる役割を果たしたのではないか。江戸期に入り、越中氷見から信濃松本へ「ブリ」が運び込まれた。北アルプス山脈超えという難関を超えていく当時の運搬は命がけであり、このルートは、現在、「ぶりノーベル出世街道」ぶり街道」と呼ばれている。 […]

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