1.金森長近が、飛騨松倉城攻めのため本陣を置いた「鮎崎城 」 。

鮎崎城(あゆさきじょう)は、飛騨鍋山城(ひだなべやまじょう)と共に、豊臣秀吉の佐々成政征伐「富山の役」に登場する飛騨の城である。
佐々成政征伐における飛騨侵攻軍総大将「金森長近」が三木自綱の次男「秀綱」が籠る「飛騨松倉城」攻めの拠点とした城であり、城跡からは、鍋山城、松倉城、高山城が一望出来る地である。
飛騨鮎崎城跡の北山公園からは、高山を一望。
カップルの聖地として人気があるらしい。
富山の役以前の姉小路 頼綱(あねがこうじよりつな)こと三木自綱(みきよりつな)は、飛騨の関ヶ原の戦いと謳われた「八日町の戦い(ようかまちのたたかい)」で飛騨統一を果たした戦国大名である。
自綱は、織田信長の配下となり、越後上杉攻めを担う佐々成政の配下にて、飛騨における親上杉派と戦うことで勢力拡大に成功。
しかし、後ろ盾であった織田信長が本能寺の変にて世を去り、代わって、羽柴秀吉が台頭。
秀吉は、佐々成政を討つべく越中へ出陣。
富山の陣となるわけだが、自綱は、佐々成政と共に秀吉軍と戦う。
秀吉配下の金森長近の攻撃にさらされた自綱が籠る高藤城も劣勢となり降伏。
この時に、鮎崎城も引き渡されたと思われる。
そして、飛騨の梟雄「三木自綱」の野望は、ここに潰えたのであった。
その後、金森軍が飛騨松倉城攻めのため鮎崎城に陣を構えたが、この時点では、既に鮎崎城を含む高堂城、広瀬城、鍋山城などが落城していたものと思われる。

飛騨鮎崎城

三木自綱と江馬輝盛の飛騨の関ヶ原の戦い八日町の戦い

戦後期における飛騨国は、親武田派の江馬氏と親織田派の姉小路氏(三木氏)にほぼ二分されていた。
しかし、1573年(元亀4)、武田信玄がこの世を去り、織田信長も1582年(天正10)、本能寺の変により志半ばでこの世を去る。
信長の死を、待っていた江馬輝盛(えまてるもり)。
信長の死により高原郷の「江馬輝盛」は、1582年(天正10)飛騨制圧に乗り出し益田郡を拠点とする「三木自綱」討伐に乗り出した。
高原郷は江馬氏城館跡のある現在の飛騨市神岡、 益田郡は、現在の飛騨高山城のある高山市ととらえれば分かり易い。
そして、 現在の岐阜県高山市国府町八日町にて「飛騨の関ヶ原の戦い」とも「飛騨の長篠の戦い」とも謳われる『八日町の戦い』が始まった。
戦いは、江馬軍の総大将である江馬輝盛が自ら騎馬にて突撃。
奮闘する江馬軍であったが、飛騨の諸勢力が援軍に駆けつけた三木軍に敗れ、輝盛は討ち死にしてしまう。
総大将を失った江馬氏は、敗走し高原諏訪城で籠城するが、神岡城と共にあえなく落城。
北飛騨の支配者「江馬氏」は、ここで滅亡することになる。


1件のコメント

飛騨鍋山城と三木家の血塗られた歴史 · 2023年1月25日 11:19 PM

[…] 飛騨の戦国史において飛騨鮎崎城、飛騨松倉城などと共に太閤秀吉の「富山の役」において登場する「鍋山城」。鍋山城(なべやまじょう)は、現在の岐阜県高山市における主に漆垣内町と松之木町に跨る鍋山(なべやま)にその姿を見せた。山頂が2つとも3つとも数えられるこの鍋山に、本丸と出丸を構える。十六世紀半ばに築城された「飛騨鍋山城」は、鍋山豊後守安室(なべやまあんむろ)が築城したと伝わる。三木家家臣の平野右衛門尉の子「平野安室」(平野豊後守安室)が、鍋山城を築き「鍋山安室」と称したという。その後、姉小路自綱(あねこうじよりつな)の策略に嵌り、自綱の弟「三木顕綱」(みきあきつな)を養子に迎えたことで、姉小路氏に乗っ取りを許してしまう。養子に入った顕綱は、鍋山一家を毒殺、または追放したのであった。乗っ取りの張本人である顕綱も、自綱から謀反の疑いをかけられ暗殺されるという経緯がある鍋山城。以降、自綱の次男「秀綱」、三男「季綱」、越中に侵攻した「金森長近」と城主が移り変わる。飛騨鍋山城は、姉小路氏(後の三木氏)の防衛線の一つとして木曽街道を押さえる役割を果たしたのではないか。江戸期に入り、越中氷見から信濃松本へ「ブリ」が運び込まれた。北アルプス山脈超えという難関を超えていく当時の運搬は命がけであり、このルートは、現在、「ぶりノーベル出世街道」ぶり街道」と呼ばれている。 […]

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