1.岐阜県の新たな観光スポット・国史跡「江馬氏館跡」

岐阜県飛騨市神岡町にある江馬氏城館跡(えましじょうかんあと)は、1980年(昭和55)に国の史跡に指定後、さらに発掘調査を続けることにより中世の武家館が復元された歴史体験ゾーンとして、岐阜県の新たな観光スポットとして注目されている。
2007年(平成19)には、「庭園」、「会所」、「主門」が復元整備され江馬氏館跡公園(えましやかたあとこうえん)として公開後、2017年(平成29)に国指定名勝を受けた。
中でも主となる「江馬氏館跡庭園 下館跡」は、約100m四方の規模であり東は、山を背に置き、西南北を土塀と堀で囲んだ。
西にあたる館正面には、2ヶ所の復元主門、復元された西側土塀があるが、特に復元主門は、撮影の定番スポットのひとつである。
西堀(薬研堀) を超えて復元主門を入ると、それぞれ復元された「江馬氏館跡庭園」(えましやかたあとていえん)、会所、常御殿跡があり、遠めに見える山を背景に庭園も撮影にお勧め。
会所であるが、有料で屋内に入館出来るが、復元感が強すぎるため優先度を下げてもよいと思われる。

江馬氏館跡公園

2.飛騨における江馬氏と「江馬時盛」「江馬輝盛」親子

現在の神岡を中心に、戦国期に飛騨北部を支配していた江馬氏。
その屋敷跡「江馬氏城館跡」が昭和55年に国の史跡に指定された。
戦国期の江馬氏は、「江馬時盛」「江馬輝盛」を指す。

江馬時盛(えまときもり)と江馬輝盛(えまてるもり)は、異説が存在するが実の親子として歴史に登場する。

しかし、1578年(天正6)、家督相続問題が勃発し、子の輝盛が親の時盛を殺害し、実質的に江馬氏の当主となった。

その後、輝盛は、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信の間に翻弄され、また、巧みに立ち回った。
武田上杉の争いが終わると、織田信長に臣従しつつ北飛騨の完全支配に乗り出す。
その後、南飛騨の飛騨松倉城主「三木自綱(姉小路頼綱)」と飛騨全土の覇権を巡り争い、飛騨の関ヶ原と謳われる「八日町の戦いで」敗れ、飛騨支配も志半ばでこの世を去った。
江馬氏城館跡は、地層から堀、屋敷跡など当時の様子が伺える。
また、復元された庭園、5つの大きな殿様の庭石(伝説)は美しく飛騨の静かな観光スポットである。

江馬氏城館跡・西側土塀

3.神岡観光と道の駅(スカイドーム神岡)

江馬氏館は、スカイドーム神岡に隣接し、復元された江馬氏城館跡の主門、庭園、薬研堀などが見学できる。
また、近くには、江馬時盛の神岡城もあり静かな神岡の街を花見シーズンに足を運ぶのも一興。 


2件のコメント

飛騨松倉城攻めの本陣とした三木自綱の「鮎崎城」 · 2023年1月24日 10:22 PM

[…] 戦後期における飛騨国は、親武田派の江馬氏と親織田派の姉小路氏(三木氏)にほぼ二分されていた。しかし、1573年(元亀4)、武田信玄がこの世を去り、織田信長も1582年(天正10)、本能寺の変により志半ばでこの世を去る。信長の死を、待っていた江馬輝盛(えまてるもり)。信長の死により高原郷の「江馬輝盛」は、1582年(天正10)飛騨制圧に乗り出し益田郡を拠点とする「三木自綱」討伐に乗り出した。高原郷は江馬氏城館跡のある現在の飛騨市神岡、 益田郡は、現在の飛騨高山城のある高山市ととらえれば分かり易い。そして、 現在の岐阜県高山市国府町八日町にて「飛騨の関ヶ原の戦い」とも「飛騨の長篠の戦い」とも謳われる『八日町の戦い』が始まった。戦いは、江馬軍の総大将である江馬輝盛が自ら騎馬にて突撃。奮闘する江馬軍であったが、飛騨の諸勢力が援軍に駆けつけた三木軍に敗れ、輝盛は討ち死にしてしまう。総大将を失った江馬氏は、敗走し高原諏訪城で籠城するが、神岡城と共にあえなく落城。北飛騨の支配者「江馬氏」は、ここで滅亡することになる。 […]

飛騨国随一!三木自綱(姉小路自綱)が居城「飛騨松倉城」 · 2023年1月26日 1:14 PM

[…] 自綱の姉小路家の歴史については、京極一族の三木家から始まる。藤原氏系の名家「姉小路家」を乗っ取る形で朝廷を抱きこんだ自綱の父「良頼」は、遂に姉小路一族であると朝廷から認められることに成功する。この時、自綱も姉小路頼綱と名を改めた。その後、自綱は、織田信長との誼を結び飛騨国支配を盤石なものへと動き出すが、信長死後は、北飛騨の江馬輝盛を八日町の戦いで勝利するも、秀吉に逆らい佐々成政と結ぶことで自信を破滅へと導いてしまう。 […]

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