1.前田利長の菩提寺「瑞龍寺」の歴史

曹洞宗高岡山「瑞龍寺」(瑞龍寺)の歴史は、江戸期の加賀藩初代「前田利長」公の菩提寺として二代「前田利常」によって建立されたことに始まる。
前田利長(まえだとしなが)は、加賀藩祖「前田利家」の嫡男として加賀百万石の太守となり、加賀藩の礎を築いた大名である。
男子に恵まれなかった利長は、異母弟である利常(としつね)を養嗣子とし次期藩主として迎えた。
隠居した利長は、1605年(慶長10)金沢城から富山城へ移ったが、1609年(慶長14)火災が原因による富山城焼失により一時的に魚津城に入る。
魚津城にて高岡城築城を進めた利長であるが、同年に「高岡城」入りした事が記録が残される。
利長は、1614年(慶長19)に病死するまでの約5年間、高岡で過ごしたことになる。
利長の死後、加賀藩二代「前田利常」が利長のために広大な寺域を誇る高岡山『瑞龍寺』を創建するが、利長への想いの強さが伺える。
そして、瑞龍寺創建の指揮を執ったのが、名匠「山上善右衛門嘉広」であり、善右衛門は、瑞龍寺のほかにも羽咋の「妙成寺」、富山県上市町の「日石寺」、小松の「那谷寺」などを手掛けた事でも知られた。
国宝に指定された山門、仏殿、法堂、そして、国の重要文化財に指定された総門など素晴らしい寺院は一見の価値あり。
また余談ではあるが、この寺院の隠れネタとしては、東司(とうす)とは、寺院における便所のことであるが、烏瑟沙摩明王が祀られているのも面白い。

国宝の瑞龍寺「山門」

2.高岡山「瑞龍寺」の特徴

富山県高岡市の高岡山「瑞龍寺」は、寺院における便所「東司」のほか、近世禅宗様建築が主な特徴となります。
瑞龍寺の「山門」「法堂」「仏殿」が近世禅宗様建築の代表作として1997年(平成9)に国宝指定されている。
山門には、黄檗隠元(おうばくいんげん)が山号「高岡山」を揮毫(きごう)し、法堂には、前田利長公の位牌が安置される。
仏殿には、本尊の釈迦如来が安置され屋根には鉛瓦が使用される。
黄檗隠元は、日本の三禅宗の一つ「黄檗宗」( おうばくしゅう ) の宗祖であり、隠元の渡来以降、中国からもたらされた明末清初の諸文化を黄檗文化と呼ぶ。
黄檗文化は、意外と現代に知られていないが、江戸期、様々分野にて日本へ影響を与えた文化である。
瑞龍寺の「山門」も流行りであった黄檗文化が取り入れられ、ほかにも、煎茶の実用、文字の明朝体などがある。
また、私自身も栽培しているが、インゲン豆も黄檗隠元により日本へもたされた。
そして、2015年(平成27)に、近世禅宗様建築を用いた「瑞龍寺」は、「加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡-人、技、心-」の構成文化財としても日本遺産にも認定されている。

黄檗隠元が 揮毫 した山号「高岡山」

3.瑞龍寺に眠る加賀初代藩主「前田利長 」とは?

前田利長は、「前田利家・利長軍記」、「小松戦国物語」などで度々登場する戦国武将である。
青年期は、北陸の関ヶ原と謳われた「浅井畷の戦い」や「木場潟の戦い」でも見られるように戦があまり得意でもなく、優柔不断と描かれることが多い。
しかし、晩年は、徳川家康を相手に見事な立ち回りと、異母弟「利常」を次期藩主とする人間性など最近では評価を見直されている。(小松プロローグ② | 悩める前田利長~家康の策略を参考
院政をすることもなく、利常に全てを委ね、そして静かに舞台から身を引いていく。
前田利長とは、豪傑とは異なる人徳の漢である。

珍しい前田利長を主人公とした著書


1件のコメント

悩める前田利長 | 家康の策略~小松プロローグ② · 2022年11月1日 9:33 PM

[…] 前田利家の死後、家康により苦難の道を歩み続ける加賀前田家二代当主「前田利長」。利家と比べられること「凡将」と評価される利長であるが、経験を重ねながらも見事に加賀百万石を守り抜く。最終的には、越中富山を含め百二十万石という広大な石高を有する大大名と成長していた。家康により鍛えながら戦国の世を生き抜いた利長は、弟の利常に当主の座を譲り自身は、越中高岡に隠居する。そして現在の高岡市には、利長の菩提寺となる瑞龍寺が国の重要文化財に指定され建築物としても高く評価されている。 […]

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