1.旧大町小学校に残る「魚津城跡」と魚津城巡る戦いの歴史

越中松倉城の支城として歴史に登場する「魚津城」(うおづじょう)は、旧北国街道(旧北陸道)を越中、越後間の要衝として非常に重要な拠点となる城である。
1335年(建武2)に椎名家によって築城されたとされるが、越中松倉城とともに戦いの度に魚津城の城主が入れ替わった。
武田氏、上杉氏の間を立ち回った「椎名康胤」(しいなやすたね)から上杉謙信配下の将「河田長親」(かわたながちか)。
その後、越後の上杉謙信と織田信長の北陸侵攻部隊「柴田勝家」の間で起こった「魚津城の戦い」は、あまりにも有名であるが、織田と上杉との間で越中魚津城を巡り激しく両者が激突する。
日本海「北陸路」、特に越中・越後境において、魚津城はいずれにとっても重要な地であったことが窺える。
明治初期までは、堀や土塁などが残されていたようだが、現在の魚津城跡は、魚津市指定史跡として旧大町小学校に説明板などが残されている。

魚津城址「富山県魚津市立大町小学校跡地内 」

2.熾烈な籠城戦「魚津城の戦い」

軍神「上杉謙信」がこの世を去り、本格的な越中東部への侵攻を開始した織田信長。
信長は、北陸侵攻部隊「柴田勝家」を総大将に魚津侵攻を命じる。
その越後侵攻軍の中には、越中富山城の城主「佐々成政」、能登小丸山城の城主「前田利家」、加賀尾山城の城主「佐久間盛政」も加わり大軍勢であった。
上杉方は、揚北三人衆(あがきたさんにんしゅう)と呼ばれた「中条景泰」(なかじょうかげやす)を主に、約三千人の城兵が魚津城を守る。
戦の序盤は、柴田勝家率いる織田の大軍を見事に防いだ越後軍であったが、敵は大軍。
頼りの上杉景勝率いる本隊も、越後本国が織田軍に包囲され迂闊に救援に迎えない。
限界の魚津城の越後軍は、降伏することを選ばずに死を覚悟する。
結果、中条景泰をはじめ、色部勝長など数十人の大将格が魚津城にて自刃することで織田軍が勝利する。

魚津城の戦いが繰り広げられた「魚津城跡」

3.豊臣秀吉の佐々成政征伐

魚津城の戦い後、一度は上杉方が魚津城を奪い返すも、再び、織田軍団の佐々成政により再び織田方の城となる。
しかし、魚津城争奪戦は、まだ続いた。
時代の主人公は、織田信長から豊臣秀吉と変わり、秀吉と、それに従わない佐々成政が争う。
富山の陣である。
富山の陣では、成政の富山城に加賀方面から秀吉本隊、飛騨方面から金森長近。
そして、東の越後方面から上杉景勝が成政を挟撃した。
魚津城は、またもや戦場となり佐々方の魚津城は、落城する。
その後、1595年(文禄4年)、富山の役にての功績により、秀吉から新川郡が加増された前田家が新たに魚津城を管理するが、江戸期の一国一城令により廃城となる。
越中西部まで版図拡大をした前田家は、江戸時代には、現在の朝日に関所を置き「境一里塚」を置いた。

③魚津城落城!軍神後継者東より現る★魚津城(富山県魚津市)


1件のコメント

前田利常の想い、前田利長の菩提寺「瑞龍寺」高岡市 · 2023年1月29日 9:13 PM

[…] 曹洞宗高岡山「瑞龍寺」(瑞龍寺)の歴史は、江戸期の加賀藩初代「前田利長」公の菩提寺として二代「前田利常」によって建立されたことに始まる。前田利長(まえだとしなが)は、加賀藩祖「前田利家」の嫡男として加賀百万石の太守となり、加賀藩の礎を築いた大名である。男子に恵まれなかった利長は、異母弟である利常(としつね)を養嗣子とし次期藩主として迎えた。隠居した利長は、1605年(慶長10)金沢城から富山城へ移ったが、1609年(慶長14)火災が原因による富山城焼失により一時的に魚津城に入る。魚津城にて高岡城築城を進めた利長であるが、同年に「高岡城」入りした事が記録が残される。利長は、1614年(慶長19)に病死するまでの約5年間、高岡で過ごしたことになる。利長の死後、加賀藩二代「前田利常」が利長のために広大な寺域を誇る高岡山『瑞龍寺』を創建するが、利長への想いの強さが伺える。そして、瑞龍寺創建の指揮を執ったのが、名匠「山上善右衛門嘉広」であり、善右衛門は、瑞龍寺のほかにも羽咋の「妙成寺」、富山県上市町の「日石寺」、小松の「那谷寺」などを手掛けた事でも知られた。国宝に指定された山門、仏殿、法堂、そして、国の重要文化財に指定された総門など素晴らしい寺院は一見の価値あり。また余談ではあるが、この寺院の隠れネタとしては、東司(とうす)とは、寺院における便所のことであるが、烏瑟沙摩明王が祀られているのも面白い。 […]

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