1.小矢部市にある埴生護国八幡宮(埴生八幡宮)の歴史
富山県小矢部市埴生の埴生護国八幡宮(はにゅうごこくはちまんぐう)は、奈良時代の養老年間に宇佐八幡宮の御分霊を勧請したのが始まりである。
木曾義仲(きそよしなか)が源平の戦いにおける倶利伽羅峠の戦いにて戦勝祈願したことが「源平盛衰記」に記録されている。
倶利伽羅峠の戦いにおいて義仲が、この「埴生八幡宮」(はにゅうはちまんぐう)から倶利伽羅峠へ向かったこと、また、平維盛が倶利伽羅峠の「猿ケ馬場(現在の平家本陣跡)」にて本陣を張ったっことなどから、倶利伽羅峠は、北陸における要衝中の要衝であったことが伺える。
当時は、この倶利伽羅峠を超えずして中央から北越へ向かうことは、ほぼ不可能であった。
天平時代には、万葉集でも有名な越中国守「大伴家持」(おおとものやかもち)も、この倶利伽羅峠を超えて中央そして、加賀そして、越中に赴き、埴生八幡宮にて国家安寧を祈願したと伝えられる。
倶利伽羅峠の戦いは、木曽義仲率いる源氏軍の勝利として終えるが、埴生八幡宮は、その後の戦国期には、前田利家や佐々成政から庇護され、現在まで語り継がれる。
約1300年の古い歴史を持つし埴生護国八幡宮の社殿は、国指定重要文化財として小矢部市の代表的な観光スポットとなっているほか、高校受験、大学受験の合格祈願としても人気が高いパワースポットである。
2.前田利長が寄進した「埴生八幡宮」の本殿
埴生八幡宮の社殿は、前田利長が関ヶ原と同年の小松・加賀出兵時に祈願があり、その後寄進された。
加賀の前田利長(まえだとしなが)は、関ヶ原の合戦の折には、徳川家康を旗頭とした東軍に付き、金沢から中央へ向けて出陣。
その途中に、小松城の丹羽家。
そして、大聖寺城の山口家と戦う事となるが、越前を目前に金沢へ謎の撤退を始める。
しかしながら、関ヶ原の合戦にて勝利した徳川家康から、加賀を安堵され、前田家は、その後も埴生八幡に寄進を続けた。
祈願書や寄進状は、実際に数十通も残り、埴生八幡宮敷地内の宝物殿に保管されている。
宝物殿は、有料でかつ事前申し込みが必要となるのでご注意が必要だ。
そして、埴生八幡宮の社殿は、拝殿・幣殿、釣殿、本殿の三棟が連なり、国指定重要文化財に指定されている。
実際に立ち入ることが出来るのは、一般的には拝殿までとなるが、横からは三棟を拝見することが可能で一見の価値あり。
御祭神は、八幡大神(誉田別命)である。
埴生八幡宮「拝殿」 埴生八幡宮「社殿」 埴生八幡宮の由緒
3.木曽義仲の像としては・・日本一の騎馬像
昭和58年に源平倶利伽羅合戦800年祭を記念し建立された日本一の源義仲像。
日本一の騎馬像というわけではありません。
木曽義仲(源義仲)は、河内源氏の一族で源頼朝や義経兄弟とは従兄弟にあたる。
平清盛(たいらのきよもり)を筆頭とする平氏を排除すべく後白河法皇の第三王子「以仁王」(もちひとおう)が、全国に平氏打倒を命じる令旨(りょうじ)を発する。
それにいち早く反応したのが源氏の地を引く信州の木曽義仲であった。
頼朝よりも早く上洛作戦を遂行した義仲は、以仁王の第一王子「北陸宮」(ほくろくのみや)を擁し、それを大義名分とすることで平家軍と戦う。
倶利伽羅峠古戦場でも語り継がれるように義仲は、戦の天才でもある。
倶利伽羅峠の戦いにて勝利をおさめた義仲は、その後に京へ上り平氏の駆逐に成功した平安末期の英雄であった。
源平盛衰記では、それに随行したのが「巴御前」と語り継がれ、義仲と共に戦うと同時に、互いを大切に思うような関係であったと解釈される。
平安における愛の象徴「義仲」と「巴御前」による恋愛成就。
そして、人生勝負の時には、義仲の騎馬像の前に立ち、武神として崇敬を集めた八幡神で戦勝祈願していては如何でしょうか。
4.埴生八幡境内には、名水「鳩清水」なども
埴生八幡宮の境内には、社殿、源義仲像、宝物殿のほか「義仲の松」「巴の松」「鳩清水」「資料館」など見どころが盛りだくさん。
石段下の広場にある「義仲の松」と「巴の松」の双方の松は、それぞれ縁の苗木を譲り受けて育てたものである。
また、倶利伽羅峠の戦いの時に、源氏軍が八幡神の御使いである白い鳩の導きにより得た鳩清水(はとしみず)があり、とやまの名水に指定された。
そして、私個人がよく訪れるのは、資料館である。
この資料館には、倶利伽羅峠の戦いにおける説明や、シミュレーション板が展示されているほか、源平合戦に関する資料や、前田利家、佐々成政など著書が多数設置されている。
特に、佐々成政関連の著書を読めるのはありがたい。
石川県津幡町の倶利迦羅不動寺と共に、富山県小矢部市の埴生護国八幡宮は、旧北陸道における倶利伽羅峠観光の双璧といえよう。
とやまの名水「鳩清水」 「義仲の松」と「巴の松」 埴生護国八幡宮の敷地内
3件のコメント
NHK大河ドラマなどでも度々登場する『平清盛』の戦い · 2022年2月27日 3:01 PM
[…] 富山県小矢部市『埴生護国神社』 の木曽義仲像 […]
津幡の花見スポット「倶利伽羅公園」と「倶利迦羅さん八重桜まつり」 · 2023年2月2日 3:09 PM
[…] 倶利伽羅公園(くりからこうえん)は、旧北陸道上の「倶利伽羅峠」にある津幡町の公園である。石川県の津幡町と富山県の小矢部市の県境ということで小矢部「倶利伽羅県定公園」と混同されやすいが、津幡町に属する公園である。気になる両県の仲であるが、現在は、倶梨伽羅峠の戦いに因んで開催される小矢部市と津幡町の交流「源平大綱引き合戦」にて両県の親睦が行われている。大綱引きは、源平合戦「倶利伽羅峠の戦い」をモチーフとして行われ、 小矢部市側は木曽義仲が率いる「源氏軍」で白 。津幡町側が、平維盛率いる「平家軍 」で赤。勝敗は、3本勝負で2勝先取で決するが、これまでの成績は、ほぼ互角となっている。喧嘩祭りではないので、それが一番よい。お隣の小矢部の「倶利伽羅県定公園」と歩調を合わせた倶利伽羅の発展に、ますます期待したい。そんな倶利伽羅公園であるが、沢山の八重桜が咲き誇り、津幡における「桜の名所」としても有名である。津幡側には、手向神社、倶利迦羅不動寺、倶利伽羅村の復活に貢献した秀雅上人像があり、津幡の代表的な観光スポットとなっている。また、小矢部の方に行くと倶利伽羅峠古戦場など数々の史跡も存在する、埴生護国八幡宮へと続く。 […]
八重桜が咲き誇る花見の名所、小矢部「倶利伽羅県定公園」 · 2023年2月2日 6:48 PM
[…] 八重桜で有名な「倶利伽羅県定公園」であるが、猿ケ馬場の平家軍本陣跡(さるがばばのへいけほんじんあと)、火牛の像(かぎゅうのぞう)などの周辺には、隣接する観光スポットが沢山存在します。なかでも倶利伽羅古戦場は、2022年度NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも紹介された。1183年(寿永2)、打倒平氏の旗を掲げ信濃国から北陸へ兵を進めた「木曽義仲」(源義仲)と、平家軍の大将「平維盛」とが倶利伽羅にて激突する。木曽義仲(きそよしなか)は、現在の小矢部市「埴生護国八幡宮」付近から倶利伽羅峠を進んだ。一方、平維盛(たいらのこれもり)は、既に倶利伽羅峠にて迎撃態勢を敷く。その本陣が、猿ケ馬場であり、現在は「平家軍本陣跡」として残される。勝敗は、火牛の計(かぎゅうのけい)を用いた義仲が数百頭の牛の角に松明をつけて平家軍に突進。平家軍は、谷底へ落とされたいうが、その場所が丁度「地獄谷」である。戦いは、義仲の圧勝であった。あれから千年近く経った令和の時代。倶利伽羅峠の戦いは、源平の戦いにおいて最も有名な戦いとして今でも倶利伽羅県定公園と倶利伽羅古戦場に語り継がれている。 […]