1.謎の村上氏「村上義明」と「小松城」の歴史

小松城(こまつじょう)は、1576年(天正4)に加賀一向一揆の将「若林長門守」(わかばやしながとのかみ)によって築かれたとされる。
1573年(天正元)、織田信長(おだのぶなが)により越前朝倉家(えちぜんあさくらけ)が滅亡。
その後の信長は、柴田勝家(しばたかついえ)、佐久間盛政(さくまもりまさ)を越前から北加賀に侵攻させた。
当時の加賀においては、一向衆勢力が健在で「大聖寺城」「御幸塚城」「小松城」などを中心に防衛線を張り織田軍団を迎え撃つ体制を整えていた。
若林長門守は、越前においても織田軍と戦い堀江景忠(ほりえかげただ)の裏切りにより大敗を喫している。
そして、加賀においても後の小松城の礎を築くなど織田軍団へのリベンジに心を燃やした。
結果は、残念ながら再び大敗を喫し南加賀への侵攻を許すことになる。
その後の小松城は、織田信長の北陸侵攻の過程で丹羽長重の家臣となっていた『村上義明』(むらかみよしあき)が城主となる。
この義明であるが、武田信玄の物語に登場する信濃葛尾城主「村上義清」(むらかみよしきよ)の嫡男「義利」の子とされるが真相は不明である。
義清は、上田原の戦い、砥石崩れなど武田信玄(たけだしんげん)を苦しめるが、最後は、越後へ逃れ上杉謙信(うえすぎけんしん)の配下の将となる。
そして、1573(天正元)年に死去、その時73歳であったことから、嫡男「義利」は53歳、さらにその嫡男「義明」が33歳とする。
ゆえに、過程してみると丹羽長秀(にわながひで)の家臣なったのは、1582年(天正10)の天正壬午の乱後というのは察しが付くが39歳ということになる。
丹羽氏の家伝史料では、12歳で丹羽家に仕えたとあるが、39歳の誤りか、さらに義明の子の誤りか。
村上一族であるのことは、ほぼ間違いないとしても真相は如何に。

小松城址(石川県小松市)

2.「小松城址」が語りかける村上氏以降の歴史

村上義明(むらかみよしあき)が丹羽家の家臣となったのは、上記の「1582年の天正壬午の乱後というのは察しが付く 」 との理由は、 村上家の主君「上杉家 」と 丹羽長秀の主君「羽柴秀吉 」 (織田信長から羽柴秀吉に) は、 天正壬午の乱以降に羽柴・上杉間が同盟関係になったことからである。
上杉方から羽柴方への人質というところであろう。
丹羽長秀の家臣となった義明は、丹羽家の越前・加賀小松入りに伴って小松城に入城。
その後、1585年(天正13)長秀が死すと次期当主「丹羽長重」が富山の役、九州征伐の不手際を攻められ豊臣秀吉から越前・加賀を没収され加賀小松に移封される。
それにより義明は、小松城を去り新らしく越前領主となった堀家の与力として越前へ向かった。
長重は、義明が去った小松城へ入るところで「北陸の関ヶ原」へと続く。
そして、小松城址(石川県小松市丸の内町)は、現在も小松戦国物語を語り継ぐのであった。

梯川を利用した「小松の浮城」

小松城跡は、梯川の蛇行によってつくられた沼地を利用した平城であり、「芦城」「小松の浮城」などとも呼ばれた。
梯川の水を引き入れた堀は、まさに浮城そのものである。
小松城は、山口宗永の大聖寺城とともに南加賀の双璧といえよう。
本来の小松城の縄張りは、現在の小松市役所、芦城公園、石川県立小松高等学校などを広範囲に含み十万石の面影を僅かに残す。
天守台が残ることからも三層レベルの「天守台」が存在したのは間違いだろう。

小松城址の本丸櫓から梯川を望む

7件のコメント

木曾義仲が倶利伽羅峠の戦いで先勝祈願した埴生八幡宮 · 2022年12月2日 9:25 PM

[…] 本殿は、前田利長が関ヶ原と同年の小松・加賀出兵時に祈願があり、その後寄進された。祈願書や寄進状は、実際に数十通も残り、社殿は国指定重要文化財に指定されている。加賀の前田利長は、関ヶ原の合戦の折には、徳川家康を旗頭とした東軍に付き、金沢から中央へ向けて出陣。その途中に、小松城の丹羽家。そして、大聖寺城の山口家と戦う事となるが、越前を目前に金沢へ謎の撤退を始める。しかしながら、関ヶ原の合戦にて勝利した徳川家康から、加賀を安堵され、前田家は、その後も埴生八幡に寄進を続けた。 […]

明暗を分けた前田家と丹羽家・その後② · 2023年2月19日 7:52 PM

[…] 金沢城(かなざわじょう)を出立した前田軍は、丹羽長重の「小松城」(こまつじょう)突破に頭を痛めた。 […]

南加賀の橋頭保として歴史舞台に登場する小松市「御幸塚城」 · 2023年2月20日 5:25 PM

[…] 越前朝倉氏、織田信長、上杉謙信など、加賀侵攻には、御幸塚城が立ちはだかった。この静かな「御幸塚城跡」からは想像が出来ない。そして、織田支配が終わり、豊臣時代となり、小松城に丹羽長重(にわながしげ)が入城し御幸塚も当然その支配下となる。時は1600年。日本は二つに分かれた。関ヶ原の戦いを主とした東軍「徳川家康」と西軍「石田三成」の東西決戦である。そして、ここ静かな御幸塚城址のある小松も騒乱に巻き込まれてしまう。北陸の関ヶ原とも謳われる東軍に付いた前田利長と西軍に付いた丹羽長重の争いである。金沢の前田利長は、大軍勢を率いて小松を通過。これを通してなるものかと、丹羽長重が襲撃する。小松戦国物語「木場潟の戦い」と呼ばれたこの戦いに、重要な働きをしたのが御幸塚城であった。木場潟をも見通せる今江城(いまえじょう)こと御幸塚城から前田軍の動きをはっきりと捉えたと伝えられる。この御幸塚城址から見る木場潟、そして白山を見ながら当時の状況を思い浮かべるも一興である。 […]

和田山城跡(石川県能美市)★第一章・嵐の前触れ!前田利長「和田山城」に着陣 · 2023年2月21日 10:25 PM

[…] 一万を超える軍勢を率いて金沢城(かなざわじょう)から出陣した前田利長(まえだとしなが)。小松城(こまつじょう)の丹羽軍の情報を探りながら、まずは、松任城に入場した。七月二六日、能美の和田山城(わだやまじょう)に逗留。和田山城は、「和田山・末寺山古墳群」も存在する丘陵地「和田山」に存在した。本格的に、小松城攻めの気配を見せる前田軍。しかし、小松城攻めを主張する利長の弟「前田利政」(まえだとしまさ)と、危険性の高い小松城をおき、大聖寺攻めを優先とする高山長房(たかやまながふさ)との間に意見が割れた。「目先の小松城を先に落とすのが常套手段であろう」「わが隊のみで充分、小松を落とす」武断派の利政は強気である。「それは無理でござろう」「長重は、小松城に篭るのは見えてござる」長房も譲らない。 […]

小松の剛勇、丹羽長重 | 小松プロローグ③ · 2023年2月22日 9:39 PM

[…] 丹羽家の歴史は、前田家と近いものがある。丹羽長重(にわながしげ)の父「長秀」、利長の父「利家」共に織田信長(おだのぶなが)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、 共に尾張国から北陸へ流れて来ている。それだけではなく、もともとは秀吉より身分が上であった事も共通している。両家の運命の分かれ道は、世継ぎ長重、利長で大きく分かれてまう。長重は、先代「長秀」の時代に築いた百二十万石を、秀吉の逆鱗に触れ松任四万石に減封されてしまう。その後の功績で松任を含む小松十二万石に加増されたが、所詮は前田家の敵ではなくなっていた。しかし、長重は豪将であり家康方についた前田家の敵となった。石田方の西軍として百万石を相手に 小松城(こまつじょう)を拠点とし一歩も引く気配を見せない。その理由は長重の意地と推測される。 […]

小松プロローグ④ | 日ノ本騒乱~北陸の関ヶ原始まる · 2023年2月23日 8:07 PM

[…] 徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍十万と、石田三成(いしだみつなり)率いる西軍十万が関ヶ原(せきがはら)に迫った。その後、有名な関ヶ原の戦いが起きるわけであるが、戦いは、関ヶ原だけに限らなかった。東北では、伊達政宗(だてまさむね)と上杉景勝(うえすぎかげかつ)が争い、九州では黒田如水(くろだじょすい)が野心を秘め、九州席捲を目論む。そして北陸では、前田利長(まえだとしなが)が中央の家康と合流するため、北国街道を南へ進撃を開始した。これが世に言う「北陸の関ヶ原」である。前田軍が中央へ向かうには、まず小松を通過しなければならない。小松城(こまつじょう)には西軍方に付いた剛将、丹羽重長(にわながしげ)が手薬煉をひいて待っている。1600年(慶長5)七月二十六日、前田軍は二万五千の大軍を率いて金沢城(かなざわじょう)を発った。松任、水島を経由し、手取川を渡り和田山を目指す。三道山の一部ともいえる和田山にある和田山城(わだやまじょう)に本陣を構えた前田軍。その報を聞き、隙を伺う丹羽軍の間で、北陸の関ヶ原が始まろうとしていた。 […]

妙立寺(忍者寺)★③寺町寺院群と宗派の関係 | ここでも記憶を · 2023年2月25日 10:55 PM

[…] 加賀藩二代藩主「前田利常」(まえだとしつね)が整備したと伝えられる寺町寺院群。金沢城下町には、3つの寺院群が存在し金沢三寺院群と呼ばれる。浅野川の北「卯辰山寺院群」、浅野川と犀川の中間「小立野寺院群」そして、犀川の南「寺町寺院群」が存在する。寺町寺院群は、忍者寺こと「妙立寺」を含む約70の寺社が存在し、金沢三寺院群の中では規模が一番大きい。寺院群の大半は、寺社の管理、防御機能、一揆対策が寺院群形成の目的であるが、特にここ金沢においては、一揆対策が主であった。真宗王国「加賀」において、最も警戒すべきは一向宗と呼ばれる集団であり、浄土真宗である。金沢における寺院群も、浄土真宗を監視するがの如く各宗派が配置されている。大国である加賀藩においては、隣国よりは一向宗の方が強敵となりえる可能性があったのだ。そんな重いイメージを持つ寺院群であるが、寺町寺院群を散策するとなかなかに楽しい。妙立寺をはじめ、室生犀星ゆかりの「雨宝院」、病気が治ると言われる霊薬不動「香林寺」などを楽しみながら「にし茶屋街」もアクセス可能。また春には、小松城址から移植され塀を壊し道路側に飛び出した「松月寺」の桜など、桜の花見巡りも最高です。 […]

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