①前田軍を待ちうける小松城主「丹羽長重」

前田軍が再び来る。
御幸塚城(みゆきづかじょう)から受けた報は、丹羽長重(にわながしげ)の心をさらに熱くした。
もともと長重は、十二万石の領主である。
その十二万石が、百万石の大大名に堂々と挑んだのである。
これは、単に丹羽家の意地であった。
丹羽家が西軍についたのは訳があった。
前田利家死後の前田家が、芳春院を人質にとられ、家康側に付く前の話である。
最初は、家康の命にて丹羽家が前田征伐の先鋒を言い渡された。
しかし、前田家は前田利長(まえだとしなが)の母「芳春院」(ほうしゅういん)を人質に出し、家康に屈する事になる。
すると家康は、丹羽家を差し置き、前田家を北陸軍の総大将的立場に任命する。
石高が上であるのは仕方が無いが、長重にしては合点がいかない。
長重は強情であるゆえに、当然家康に不快をあらわにし、前田家に敵意をもつようになる。
”前田が家康に、丹羽家の事を讒言したな”
これが長重の本意あった。

小松城の本丸

②丹羽長重の居城「小松城跡」

小松城(こまつじょう)は、梯川(かけはしがわ)を利用し、堅固な浮城として存在感を示した。
梯川から水を取り込み当時の城の周辺は、湿地帯として「浮き城」又は、「芦城」とも呼ばれた。
一万以上の前田軍でも容易に落とすことが出来ないと判断させた名城である。
また、越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)が度々加賀を侵攻していた時、一乗谷に来ていたに、要害の地はどこかと尋ねると「加賀にては小松あたり」と答えたと伝わる。
現在の小松城址(小松市丸内町)の敷地内を見れば、「芦城公園」「小松高校」も含み、縄張りの広さを伺える。
大抵の方は、城というと天守閣を想像するが、城全体の縄張りが城の規模を測ることを小松城跡が教えてくれる。

丹羽長重の居城であった「小松城跡」

③芦城公園と前田利常像

小松城跡にある芦城公園(ろじょうこうえん)は、北陸の関ヶ原後の江戸期に造られた大名庭園である。
芦城公園は、二代目加賀藩主「前田利常」(まえだとしつね)の隠居後に小松城に移られた時に造られるが、一国一城令時代に広大な庭園のほか小松城の改築も行った。
当時の、江戸幕府の外様大名締め付けにも関わらず、堀まで増強した利常そして、前田家は、超優遇されたことになる。
余程、徳川家としても前田家の財力に期待していた黒い思惑が窺われる。
小松城の歴史を語るは、加賀一向一揆の将「若林長門守」(わかばやしながとのかみ)、丹羽家家臣「村上義明」(むらかみよしあき)、「丹羽長重」と続くが、現在では前田利常像が存在することから、二代藩主「前田利常」が小松城を語る上での主役となっている。
前田利常の像ほか小松城の三の丸跡に作られた園内には、池泉回遊式庭園としての美しい光景のほか、博物館、美術館、図書館、茶室などもある。
また以前は、サルなど小動物なども飼育され子供たちに人気があった。

芦城公園の前田利常像

第6章・熾烈な退却戦!浅井畷の戦い


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