1.南加賀における戦いの歴史は、小松市「御幸塚城」あり

御幸塚城(みゆきづかじょう)の歴史は、1400年代から始まる。
今江城(いまえじょう)とも呼ばれる御幸塚城は、小松市今江町(今江小学校敷地内)にあったが、今江潟を含む加賀三湖を見渡せる要所に存在した。
ゆえに、大聖寺と共に越前に対する南加賀の防御線として度々、戦国史における歴史舞台に登場する。
1400年代に冨樫泰高が御幸塚城を築き、その後、越前朝倉家との攻防が続くことで一揆方と朝倉家との間で主を変えていく。
1500年代になると、織田信長の北陸侵攻時にも登場。
信長配下の将「佐久間盛政」が御幸塚城に籠る一揆勢を攻め落城させた。
その後、上杉謙信の襲来時、織田軍は手取川の戦いにて敗れているが、織田方は、御幸塚城を死守することで、謙信の南下をなんとか足止めすることに成功。
手取川戦国物語でも御幸塚城が登場している。
南加賀の戦いは、全て小松の「御幸塚城」が一枚嚙んでいるのである。
ちなみに、御幸塚城跡があるこのエリアの小学校は「今江小学校」(いまえしょうがっこう)であるが、中学校は「御幸塚中学」(みゆきづかちゅうがく)である。

御幸塚城跡(みゆきづかじょうあと)

2.富樫泰高の1400年代

①富樫家十七名当主「富樫泰高」誕生

富樫泰高(とがしやすたか)は、富樫家十三代当主「富樫満春」(とがしみつはる)の三男として守護大名として加賀で活躍する。
当時は、応仁の乱以前にあたる守護大名の時代であった。
満春は、北加賀の守護に、同族の富樫満成(みつしげ)は、南加賀の守護として加賀を二分するが、後に満春が加賀守護として統一される。
その統一した加賀守護は、泰高の兄「持春」「教家」と受け継がれるが、1441年(嘉吉元)に兄である富樫家十三代当主「富樫教家」(とがしのりいえ)が室町幕府六代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)
の逆鱗に触れ蟄居。
その後継として富樫家十七名当主「富樫泰高」(とがしやすたか)が誕生した。
御幸塚城が築かれたのは、丁度この頃であったと推察される。

②富樫泰高と加賀守護の争奪戦

加賀守護として君臨した泰高であったが、前守護であり兄の教家が泰高に守護職の返還を求めたことで富樫家の内乱が勃発。
泰高と教家・成春親子の争いは、加賀両流文安騒動、富樫の両流内乱と呼ばれ6年も続く。
この類の内乱は、必ずと言ってよい程に外部の巨大権力が存在する。
今回は、管領細川氏と畠山氏である。
管領「細川持之」(ほそかわもちゆき)、後に「細川勝元」(ほそかわかつもと)は、泰高の支援。
管領「畠山持国」(はたけやま もちくに)は、教家をそれぞれ支援することで争いは激化。
教家と泰高は、両管領の代理戦争の面も含み、後の日本を揺るがす「応仁の乱」へと発展する要因の一つとしてあげられる。
教家の子であり、名目上の富樫家十七名当主であった富樫成春(とがししげはる)が病死。
それにより泰高が復帰するが、その後、成春の子「政親」が家督を継ぐことで富樫家の内乱も終結に至る。
しかし、富樫家にはさらなる波乱が待ち受けていた。
1467年(応仁元)、応仁の乱が勃発。
富樫家十七名当主「富樫政親」(とがしまさちか)が東軍・細川勝元(ほそかわかつもと)に与することで、西軍・山名宗全(やまなそうぜん)に組した「富樫幸千代」(とがしこうちよ)と骨肉の争いを繰り広げることになる。
またも、代理戦争が始まり、引退したはずの泰高が再び暗躍する。

3.戦国時代末期の1500年代以降

越前朝倉氏、織田信長、上杉謙信など、加賀侵攻には、御幸塚城が立ちはだかった。
この静かな「御幸塚城跡」からは想像が出来ない。
そして、織田支配が終わり、豊臣時代となり、小松城に丹羽長重(にわながしげ)が入城し御幸塚も当然その支配下となる。
時は1600年。
日本は二つに分かれた。
関ヶ原の戦いを主とした東軍「徳川家康」と西軍「石田三成」の東西決戦である。
そして、ここ静かな御幸塚城址のある小松も騒乱に巻き込まれてしまう。
北陸の関ヶ原とも謳われる東軍に付いた前田利長と西軍に付いた丹羽長重の争いである。
金沢の前田利長は、大軍勢を率いて小松を通過。
これを通してなるものかと、丹羽長重が襲撃する。
小松戦国物語「木場潟の戦い」と呼ばれたこの戦いに、重要な働きをしたのが御幸塚城であった。
木場潟をも見通せる今江城(いまえじょう)こと御幸塚城から前田軍の動きをはっきりと捉えたと伝えられる。
この御幸塚城址から見る木場潟、そして白山を見ながら当時の状況を思い浮かべるも一興である。


3件のコメント

今江城跡★第4章・謎の退却!前田軍金沢返し · 2023年2月20日 7:12 PM

[…] 前田軍の再来襲に備えた前線基地「今江城」(いまえじょう)。加賀三湖(かがさんこ)を見渡す事が可能な今江城である。丹羽軍が前田軍を偵察するには、絶好の場所であった。現在の小松市今江町(今江小学校敷地内)にある今江城は、又の名を御幸塚城(みゆきづかじょう)とも呼ぶ。加賀守護「富樫泰高」(とがしやすたか)により築城されたと伝わる今江城は、1400年代以降に度々戦国史に登場する城である。そして平成時代に入り、この歴史ある加賀の今江城跡に、2007年「今江城址」を舞台としたイベント「小松戦国物語~史跡一興」が開催され、今江城にまつわる物語、語り部、そしてお茶会が催された。 […]

小松城跡★第5章・小松城主「丹羽長重」の意地!百万石との死闘 · 2023年2月20日 11:19 PM

[…] 前田軍が再び来る。御幸塚城(みゆきづかじょう)から受けた報は、丹羽長重(にわながしげ)の心をさらに熱くした。もともと長重は、十二万石の領主である。その十二万石が、百万石の大大名に堂々と挑んだのである。これは、単に丹羽家の意地であった。丹羽家が西軍についたのは訳があった。前田利家死後の前田家が、芳春院を人質にとられ、家康側に付く前の話である。最初は、家康の命にて丹羽家が前田征伐の先鋒を言い渡された。しかし、前田家は前田利長(まえだとしなが)の母「芳春院」(ほうしゅういん)を人質に出し、家康に屈する事になる。すると家康は、丹羽家を差し置き、前田家を北陸軍の総大将的立場に任命する。石高が上であるのは仕方が無いが、長重にしては合点がいかない。長重は強情であるゆえに、当然家康に不快をあらわにし、前田家に敵意をもつようになる。”前田が家康に、丹羽家の事を讒言したな”これが長重の本意あった。 […]

木場潟公園・東園地★第3章・丹羽軍奇襲!木場潟の戦い · 2023年2月21日 9:55 PM

[…] 一方のしんがりを受け持つ利政隊も、苦戦をしていた。<まずい!このままでは犠牲が大きく・・>「だれか、数百にて小松城にむけて走れ」利政は急遽決死隊を編成し、小松城に向けて走らせた。<追いかけてくれ>利政は祈った。決死隊が丹羽軍を突破し、小松城方面へ爆進する。すると、これを丹羽軍が追い始めた。「前田軍が小松へ向かったぞ!!」この時、長重は小松城と木場潟の丁度中間あたり、御幸塚城(みゆきづかじょう)にいた。「何、前田軍が小松城へ向かっただと」「木場奇襲部隊を直ちに引かせよ」 長重は突如、撤退命令を出した。実は、この小松へ押し寄せた兵の殆どは丹羽兵であり、前田軍の数は僅かである。丹羽軍の偵察隊は、これを全て前田軍が押し寄せたものと感違いしたのであった。 […]

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