①小松城より丹羽長重が木場潟へ出撃
”前田軍動く”この報を聞き丹羽長重が奮い立つ。
「よしゃ、出撃じゃ!!」
丹羽軍が木場潟方面へ兵を繰り出した。
丹羽軍は大きく舞台を3つに分ける。
その陣容は、小松城方面よりの奇襲部隊及び、後詰の待機舞台。
もう1つは、木場潟上を船より攻撃する舞台である。
そして丹羽軍は、木場潟より手前にて密かに期を伺った。
対する前田軍は、小松城よりの奇襲警戒のため、本隊の利長が前衛にて先へ進み、通常先鋒となる利政が、しんがりを受け持ち後方を進む。
そして、丁度前衛の利長本隊が木場潟東の大半を通過した時であった。
「なんじゃ!!」
「小船にて襲うつもりか?」
利長は正直言って少しなめていた。
「気にせず、先を急げ」
前田軍本隊は小船にかまわず、通過を優先した。
”パパパーン”
小船より激しい銃弾が浴びせられ、前田軍の被害が広まっていく。
「おのれ長重!小うるさいことを」
あまりの激しい攻撃に利長がたまらず馬を降り、防御体制に入った。

②前田利政の機転
一方のしんがりを受け持つ利政隊も苦戦をしていた。
<まずい!このままでは犠牲が大きく・・>
「だれか、数百にて小松城にむけて走れ」
利政は急遽決死隊を編成し、小松城に向けて走らせた。
<追いかけてくれ>
利政は祈った。
決死隊が丹羽軍を突破し、小松城方面へ爆進する。
すると、これを丹羽軍が追い始めた。
「前田軍が小松へ向かったぞ!!」
この時、長重は小松城と木場潟の丁度中間あたり、御幸塚城にいた。
「何、前田軍が小松城へ向かっただと」
「木場奇襲部隊を直ちに引かせよ」 長重は突如、撤退命令を出した。
実は、この小松へ押し寄せた兵の殆どは丹羽兵であり、前田軍はほんの僅かである。
丹羽軍の偵察隊は、これを全て前田軍が押し寄せたものと感違いしたのであった。
③木場潟の戦いは、前田軍の勝利で終わる
利政が歓喜する。
<かかったな!>
「全軍小松城へ付け入れい」
利政の一声で、前田軍は怒涛の如く小松へ雪崩れ込んだ。
小松城へ押し寄せること数刻、前田軍は攻めに攻めたが、流石に丹羽軍の守りは固かった。
小松城を落とすことは出来ず、利長により退却命令が出される。
終わってみると、前田軍は甚大な被害を出していた。
利政の機転がなかったら、まだ被害を出していたに違いない。
戦いも落ち着き、兵達は戦傷を弘法の水で癒した。
その後、前田軍は陣形を整え、大聖寺方面へ兵を進める。
④「木場潟公園 」東園地
木場潟は、柴山潟、今江潟とともに「加賀三湖」のひとつに数えられる。
そして、木場潟東の戦いにおいて丹羽軍奇襲の地でもある。
春には花菖蒲、秋にはコスモスが咲き、とても激戦があったととは思えない静かな湖である。
また春には、霊峰「白山」を望める絶景地でもある。
2007年、小松市「木場潟」にて「史跡」を巡る歴史イベント「小松戦国物語~史跡一興」にて舞踏公演「木場潟の戦い」が催された。
第4章・謎の退却!前田軍金沢返し
1件のコメント
前田利常の想い、前田利長の菩提寺「瑞龍寺」高岡市 · 2023年1月29日 8:26 PM
[…] 前田利長は、「前田利家・利長軍記」、「小松戦国物語」などで度々登場する戦国武将である。青年期は、北陸の関ヶ原と謳われた「浅井畷の戦い」や「木場潟の戦い」でも見られるように戦があまり得意でもなく、優柔不断と描かれることが多い。しかし、晩年は、徳川家康を相手に見事な立ち回りと、異母弟「利常」を次期藩主とする人間性など最近では評価を見直されている。(小松プロローグ② | 悩める前田利長~家康の策略を参考) […]