1.金沢戦国物語・第3章本文

金沢城(かなざわじょう)は加賀平野に突き出した小立野台地(こだつのだいち)に位置し、北に女川こと浅野川(あさのがわ)、南には男川こと犀川(さいがわ)が流れ天然の要害となしている。
ここ犀川の南、金沢市「寺町」(てらまち)。
前田家が金沢城へ入城後、犀川とともに南の要害とした寺院群が存在したのが町名「寺町」たる所以である。
寺町寺院群は、町区画整備にて寺院を集めたほか、南方面防備の役割を果たしていると伝えられるが?
利家が金沢へ入る前の所領、能登七尾も同じような方法がとられている。
いざという時には寺院が砦の役割を果たすというものである。
そして、それを証明する代表的なものが、「妙立寺」(みょうりゅうじ)であり、高度なからくり建築から通称「忍者寺」(にんじゃでら)と呼ばれている。

忍者寺(妙立寺・みょうりゅうじ)[金沢市野町1-2-12]

2.本当に寺町寺院群は、南方面防備のため設計されたのか

寺町寺院群(てらまちじいんぐん)は、町区画整備とともに南方面防備の役割も兼ねていると伝わる。
果たしてそうなのか?
疑問が残る。
百万石を誇る大大名「前田家」は、ほぼ攻められる恐れがない。
南の越前「結城秀康」に関しては、徳川であることから逆らわない限り安泰である。
万が一に謀反の疑いをかけられたとしても、恐らく金沢気質とも揶揄される「前田気質」からして戦いの選択肢は、ほぼないであろう。
それよりは、むしろ北の浄土真宗を中心とした一向宗とも呼ばれる一揆勢力を意識したのではあるまいか。
そもそも、金沢城(かなざわじょう)から見て寺町寺院群は高台にある。
北から一揆勢力に攻められ、金沢城が危うい場合、金沢城より高台で地の利がある寺町寺院群を防御線とし、越前からの援軍を待つ。
越前、加賀、そして能登の一揆勢力と戦いを繰り広げてきた前田利家、そして前田家であるからこそ北を意識したのではと勝手にシミュレーションしてしまうのは、自分だけか。
コメント欄に、ご意見をお待ちしております。

3.金沢「寺町寺院群」

加賀藩二代藩主「前田利常」(まえだとしつね)が整備したと伝えられる寺町寺院群。
金沢城下町には、3つの寺院群が存在し金沢三寺院群と呼ばれる。
浅野川の北「卯辰山寺院群」、浅野川と犀川の中間「小立野寺院群」そして、犀川の南「寺町寺院群」が存在する。
寺町寺院群は、忍者寺こと「妙立寺」を含む約70の寺社が存在し、金沢三寺院群の中では規模が一番大きい。
寺院群の大半は、寺社の管理、防御機能、一揆対策が寺院群形成の目的であるが、特にここ金沢においては、一揆対策が主であった。
真宗王国「加賀」において、最も警戒すべきは一向宗と呼ばれる集団であり、浄土真宗である。
金沢における寺院群も、浄土真宗を監視するがの如く各宗派が配置されている。
大国である加賀藩においては、隣国よりは一向宗の方が強敵となりえる可能性があったのだ。
そんな重いイメージを持つ寺院群であるが、寺町寺院群を散策するとなかなかに楽しい。
妙立寺をはじめ、室生犀星ゆかりの「雨宝院」、病気が治ると言われる霊薬不動「香林寺」などを楽しみながら「にし茶屋街」もアクセス可能。
また春には、小松城址から移植され塀を壊し道路側に飛び出した「松月寺」の桜など、桜の花見巡りも最高です。

④金沢城下町の形成~忘れ得ぬ守護神「長続連」★長町武家屋敷跡


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