1.金沢戦国物語・第5章本文

時は、1599年(慶長4)。
反映していく城下町、太平を迎えた町民の顔。
この時が、大城下町を形成した「加賀百万石城下町」、前田利家(まえだとしいえ)生涯の泰平期であった。
しかし、それも長くは続かない。
天下人であった太閤「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の死。
これを期に利家の一抹の不安が的中していくことになる。
利家の脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。
五大老筆頭、徳川家康(とくがわいえやす)である。
家康は、必ず天下取りに奔るは必定。
その前に。
利家は、嫡男「前田利長」(まえだとしなが)、次男「前田利政」(まえだとしまさ)を呼んだ。
利長は伏見に残り、豊臣秀頼(とよとみひでより)の補佐をすること。
利政は加賀を守り、有事に備えること。
弟の利政は武断派である。
当然の如く、家康が動けば前田家として家康と戦うことを主張するであろう。
しかし、利長は、利家の遺言を守らず加賀に帰り徳川方に加担。
北陸・小松にて反徳川方と戦うことになる。
結局のところは、関ヶ原の戦いの本戦には間に合わなかったが、遅れ家康の元へ駆けつける。
その時、利政は兄利長の出兵要請を断った。
土佐守利政、出兵せず。
その後、関ヶ原の戦いに勝利し、後に天下人となる「徳川家康」から、所領没収のを宣告される。
利長の優柔不断な行動に嫌気が差した、また、利長と図り、関ヶ原の戦いにいずれがが勝利しても、前田家が存続する手段を選択した。
など、その理由は定かではない。

⑥回想・利家の想い~金沢発展と北陸新幹線★尾山神社

2.前田直之と前田土佐守家

前田直之(まえだなおゆき)は、前田利政(まえだとしまさ)の長男であり前田土佐守家(まえだとさのかみけ)の当主である。
加賀藩主の初代は、前田利家(まえだとしいえ)ではなく幕藩体制からの「藩」によることから前田利長(まえだとしなが)であった。
しかし、前田土佐守家の初代はとなると前者とは異なる。
利政、直之と続く前田家分家は後に直躬(なおみ)、直方(なおただ)、直時(なおとき)、直信(なおのぶ)と土佐守を多く輩出した。
土佐守とは、官職である。
前田土佐守家とは、土佐守を多く輩出したことから後に呼ばれる事となった通名でり、前田土佐守家の初代は「前田利政」とも、利政改易後に大名復帰した「前田直之」を指すことも出来る。
しかし、本サイトにおいては、前田土佐守家の祖「前田利政」、前田土佐守家初代「前田直之」と記載することとする。
直之の父「利政」は、関ヶ原の戦い時における出兵拒否の罪を問われ改易となっていた。
その後、利政の母「芳春院」(ほうしゅういん)の尽力もあり直之は、十二歳の時に加賀藩二代藩「前田利常」(まえだとしつね)の元で正式にお家を再興。
後一万石に加増された事で大名復帰を果たした。
大坂夏の陣は、1615年(慶長20)であり、1604年(慶長9)生まれの直之はこの時十一歳。
残念ながら、直之の大坂の陣における参陣はない。
しかし子の「前田直作」(まえだなおなり)は、加賀藩四代藩主「前田綱紀」(まえだつなのり)の「加賀八家の制」における加賀八家筆頭となり前田家を支え明治まで
繁栄を続けた。


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長町武家屋敷跡★④金沢城下町の形成~忘れ得ぬ守護神「長続連」 · 2023年2月26日 10:38 PM

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