1.金沢戦国物語・第6章本文

「もうこんな時刻となったか」
宝円寺(ほうえんじ)から始まったこの旅。
信長様に仕えた若き日から、真宗王国での戦い。
そして太閤秀吉からもらった百万石金沢の城下町と利長、利政。
どれも、これも懐かしい限りである。
「この『尾山神社』(おやまじんじゃ)は、わしと妻「まつ」のために建立してくれたと聞く」
「うれしいばかりじゃ」
「そうこうしているうちに、意識が薄れてきたようじゃ」
「そろそろ天に帰る時間であるか」
最後に、自分に祈るというのはおかしい話であるが、手を合わせよう。
「城下町金沢が世界最高峰の観光の地となるように」

前田利家公と芳春院(まつ)を祀る『尾山神社 』

2.尾山神社の歴史とステンドグラス

加賀藩祖「前田利家」(まえだとしいえ)と妻の「まつ」こと「芳春院」(ほうしゅういん)を祭神とする金沢の「尾山神社」おやまじんじゃ。
利家の嫡男であり初代加賀藩主「前田利長」(まえだとしなが)は、利家の死後、徳川家の目もあることから越中にある物部神社併祀する八幡宮の「八幡神」と榊葉神明宮の「天照大神」を遷座することを名目に勧請し卯辰八幡社(うたつはちまんしゃ)を建立。
そして、利家を合祀する。
その後、1873年(明治6年)旧金谷御殿(かなやごでん)の跡地である現在の金沢市尾山町に新たに尾山神社を創建した。
利家は、「物部氏」の末裔と称していた時期もあるというが・・
最も人気があるのは、尾山神社の神門である。
色ガラス(ギヤマン)がはめられ最上階は、当初は、灯台の役割も兼ねていたようだ。
ビル街になるまでは、金沢港、大野湊からも見えていたと伝わる。
摂社「金谷神社」には、歴代藩主が祀られ、敷地内には、若き日の前田利家騎馬像も見ることが出来る。

色ガラス(ギヤマン)の尾山神社「神門」

3.お松の方こと「芳春院」

お松の方こと「芳春院」(ほうしゅんいん)は、1547年(天文16)生まれであり利家とは、従兄妹関係にあたる。
ちなみに利家は、1539年(天文7)の生まれで、芳春院とは、八歳の年の差。
利家と芳春院が結婚したのが1558年(永禄元)であり、芳春院は十一歳の時に十九歳の利家に嫁いだことになる。
戦国時代以前は、よく聞く話であるが兎に角驚きである。
若き日は、尾張国荒子村で育ち、後の豊臣秀吉(とよとみひでよし)の妻ねねこと「高台院」(こうだんいん)とは、旧知の仲であったと伝わる。
利家が、加賀百万石の大大名となれたのも、「秀吉と利家」そして「高台院と芳春院」の信頼関係あってのことではないか。
また芳春院は、文武両道の女傑的要素があったとされ、数々の前田家の窮地を救っている。
まずは、賤ケ岳の戦いにおける利家の危機である。
賤ケ岳の戦いでは、利家は秀吉の敵となる柴田勝家(しばたかついえ)に付いた。
最終的には、利家が勝家を裏切る形で秀吉に付き、芳春院の弁明により秀吉から許しを得る。
極めつけは、関ヶ原の戦いにおける利長の危機である。
今度の前田家の相手は、徳川家康であった。
家康は、何としても百万石を有する大大名「前田家」を、味方にするなり力を削ぐなりと揺さぶりを掛ける。
豊臣大事と考える利長は、一度は家康と戦うことを決意するが芳春院の諫言により家康方に付いた。
豊臣から徳川へと時代の流れを悟った芳春院は、自ら人質となることで前田家に対する家康の疑念払拭に成功。
この判断が、江戸期を通じ外様雄藩「前田家」を確実なものとしたのである。
またその裏には、石田三成を嫌う秀吉の妻「高台院」が豊臣家に見切りをつけたことが、芳春院の判断に至った原因でもあった。
二人の女性「高台院」と「芳春院」が天下の形成に大きく関与していたのであった。

芳春院こと「お松の方座像」

4.パワースポット「尾山神社」の見どころ

勝負運の上昇で人気の「尾山神社」。
受験生の定番「金澤神社」(かなざわじんじゃ)とともに、学業成就として初詣に多くの受験生が訪れる。
ほかにも、触れると健康になるという「さし石」など。
尾山神社は、金沢のパワースポットでもあります。
尾山神社の見どころは、ギヤマンの神門のほか、若き日の前田利家像、神苑にひかれた導水管も一見の価値あり。
芳春院ことお松の方座像など、インスタ映えを狙うなら、やはり夕方である。

5.前田利家の神社ギャラリー

金沢戦国物語~前田利家の苦悩と大城下町金沢形成を巡る金沢観光コース


2件のコメント

物部氏の伝説が残る高岡市「物部神社」と「ニギハヤヒ」 · 2023年1月29日 3:39 PM

[…] 富山県高岡市東海老坂に鎮座する「物部神社」(もののべじんじゃ)。高岡の物部神社の歴史は、第八代「孝元天皇」(こうげんてんのう)の時代、第一皇子であり四道将軍の1人であった大彦命(おおひこのみこと)が北陸に派遣されたことに始まる。これに伴い、物部一族らも北陸へ向かった。その後、大伴家持(おおとものやかもち)と共に越中国入りした物部一族が、物部の祖神を拝見し喜んだことが伝えられることから、既に「物部神社」の前形が存在していた可能性が大きい。この時点では、物部氏の祖とされる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)のみを祀っていたと考えられる。また、高岡にある物部神社は、当初、現在の高岡市と氷見市との境界の奥山に鎮座していた。物部氏は、謎多き人物として知られるが、神武天皇よりも前に大和入りをした「饒速日命」ニギハヤヒが祖先と伝わる神別氏族。物部氏というと奈良の「石上神宮」(いそのかみじんぐう)が思い浮かぶが、石上神宮は、主祭神は、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)であるが、祭神として宇摩志麻治命(うましまじのみこと)を祀っている。時代が過ぎて戦国末期の頃、加賀藩祖「前田利家」(まえだとしいえ)により物部神社の歴史にも変化が訪れた。前田利家は、菅原道真(すがわらのみちざね)の後裔にて菅原氏を称しているが、一方、俄かに信じがたいが物部の末裔とも称していたとの記録も残る。利家の物部末裔説を都合よく継承した利家の子「前田利長」は、守護神としていた物部神社を遷座する名目で、卯辰山麓に卯辰八幡宮を建立した。これが、後の前田家の利家とお松の方を祀る尾山神社へ繋がるのである。現在の物部神社は、この時に、氷見から現在の高岡市海老坂に新たに八幡宮を併祀し「物部八幡宮」、そして現在の「物部神社」に至るのでは?物部氏には、非常に興味があることから、さらに研究を進めるつもりである。 […]

宝円寺★金沢戦国物語①「槍の又左」いざ北陸『金沢』へ | 前田利家、若き日の想い · 2023年2月23日 10:12 PM

[…] 金沢市の小立野寺院群(こだつのじいんぐん)にある曹洞宗「宝円寺」(ほうえんじ)は、前田利家公の菩提寺である。前田利家を巡るうえでの欠かすことが出来ない金沢観光スポットであり、「金沢城」「尾山神社」と共に訪れていただきたい。寺町寺院群(てらまちじいんぐん)は、犀川の外に配置されているが、加賀百万石の祖である前田利家の菩提寺「宝円寺」がここに創建されたことからも小立野寺院群の重要性が窺われる。天徳院(てんとくいん)、永福寺(ようふくじ)など前田家を語るに重要な人物の菩提寺が数多く存在する。実はこの宝円寺の歴史は、福井から始まる。利家が、信長より越前府中を拝領された際、直伝正祖に帰依していたことから越前府中「宝円寺」を庇護。自らを含む織田軍が焼失させた伽藍を再建するなど復興に努めた。現在の、福井県越前市高瀬にある宝円寺は、かなりポピュラーな寺院として話題を集めている。カエルの石像やかわいい意に石像などのほか、入口からビックリな寺である。このような寺院は、稀に見ますが境内には、利家の両親の供養塔や微笑延命地蔵なども拝見可能。微笑延命地蔵は、別名「歯痛地蔵」と呼ばれ歯痛をとめる力がありパワースポットとなっている。 […]

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