1.金沢戦国物語・第1章本文

越前府中から能登国「七尾」へ。
当時三万石の小身であった前田利家(まえだとしいえ)が十万石の大名となった年。
織田信長(おだのぶなが)旗下として働き、越前朝倉家征伐、加賀一向一揆との戦いなど、北陸、そして金沢においても戦場を駆けに駆け巡った。
それも報われ、ようやく十万石という一国一城の主となり能登七尾へ向かったのである。
宝円寺住持「直伝正祖(じきでんしょうそ)」に帰依していた利家は、福井の宝円寺を、七尾にも建立し、利家の心の支えとして存在していくことになる。
ここ金沢に、宝円寺が建立されるのは、それから2年後の1583年のことであった。

前田利家公の菩提寺

宝円寺[金沢市宝町6-14]「前田利家」 公の菩提寺

2.前田利家公の菩提寺・金沢「宝円寺」

①宝円寺の歴史は、福井県から始まる

金沢市の小立野寺院群(こだつのじいんぐん)にある曹洞宗「宝円寺」(ほうえんじ)は、前田利家公の菩提寺である。
前田利家を巡るうえでの欠かすことが出来ない金沢観光スポットであり、「金沢城」「尾山神社」と共に訪れていただきたい。
寺町寺院群(てらまちじいんぐん)は、犀川の外に配置されているが、加賀百万石の祖である前田利家の菩提寺「宝円寺」がここに創建されたことからも小立野寺院群の重要性が窺われる。
天徳院(てんとくいん)、永福寺(ようふくじ)など前田家を語るに重要な人物の菩提寺が数多く存在する。
実はこの宝円寺の歴史は、福井から始まる。
利家が、信長より越前府中を拝領された際、直伝正祖に帰依していたことから越前府中「宝円寺」を庇護。
自らを含む織田軍が焼失させた伽藍を再建するなど復興に努めた。
現在の、福井県越前市高瀬にある宝円寺は、かなりポピュラーな寺院として話題を集めている。
カエルの石像やかわいい意に石像などのほか、入口からビックリな寺である。
このような寺院は、稀に見ますが境内には、利家の両親の供養塔や微笑延命地蔵なども拝見可能。
微笑延命地蔵は、別名「歯痛地蔵」と呼ばれ歯痛をとめる力がありパワースポットとなっている。

②七尾から金沢へ、利家と共に旅した「宝円寺」

利家の庇護により、再建した越前府中の「宝円寺」。
1581年(天正9)に前田利家は、加賀、能登の一向一揆討伐の功により信長から能登七尾に移封された。
当初は、七尾城(ななおじょう)に入るが港にも近い「小丸山城」(こまるやまじょう)の築城に着手する。
それと同時に、小丸山城から北に寺院群を整備。
現在の、山の寺寺院群となるわけだが、その地に大透圭徐和尚(だいとうけいじょおしょう)を迎え「宝円寺」を建立。
利家は、余程「宝円寺」に心を寄せていたのであろう。
利家の出世と共に七尾に移る宝円寺であるが、今後は金沢へ。
七尾の宝円寺は、長齢寺(ちょうれいじ)と名を改め山の寺寺院群16寺院の一つとして、七尾市の観光スポットとなり歴史を語り継ぐ。
利家は、前田佐々抗争、そして富山の役の功にて豊臣秀吉から金沢を拝領。
遂に加賀百万石の大大名となった。
当然、金沢にも大透圭徐を招き宝円寺を建立したことは容易に察しが付くであろう。
現在の石川門付近に建立された宝円寺は、二代藩主「前田利常」(まえだとしつね)が現在の金沢市宝町に移し、、四代藩主「前田綱紀」(まえだつなのり)が本堂などを含め改築。
以降、宝円寺は前田利家の菩提寺として加賀百万石の歴史を語り継ぐ。
金沢の宝円寺には、利家の自画像そして、利家の髪を納めた御影堂・御髪堂があり拝見出来る。
また、本堂、山門は国の登録有形文化財に指定され貴重な金沢の観光スポットとなっている。

御影堂・御髪堂
御影堂・御髪堂

②利家、金沢城へ | 一向宗との戦いから得た真宗王国の改造〈石川門〉


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