1. 古墳群も存在する「和田山城跡」

能美市と小松市との境界にて、国指定史跡「和田山・末寺山古墳群」が存在し三道山(みどうやま)と呼ばれていた。
三道山とは、和田山(わだやま)を含むいくつかの山の総称という説が強い。
和田山と呼ばれる小高い場所に存在した古墳群(わだやまこふんぐん)には、約60の古墳がその姿を残し、頂上より見下ろすと戦略的に非常に重要な地点であったことが伺える。
戦国期、和田坊が築城し、織田信長(おだのぶなが)の北陸侵攻時に柴田勝家(しばたかついえ)によって落城したと伝えられる。
以降、特に城としての記録は残されていないが、後に、北陸の関ヶ原と呼ばれた前田利長(かえだとしなが)の中央出兵。
金沢から出陣した前田軍は、丹羽長重(にわながしげ)の立て籠もる小松城(こまつじょう)、そして小松(現在の小松市)を見下ろす能美「和田山城」(わだやまじょう)に陣を構えたと。
記録には、和田山城又は、和田山と二種の記載されているケースがあることから、正式には、城跡であった可能性が高い。
石川県能美市の和田山城跡は、城跡のほか、「和田山古墳群」「末寺山古墳群」「能美市立歴史民俗資料館」も同時に楽しめる能美市の観光スポットである。

和田山城跡(石川県能美市和田山)

2.第一章本文

①前田利長、和田山城(能美市)に着陣

一万を超える軍勢を率いて金沢城(かなざわじょう)から出陣した前田利長(まえだとしなが)。
小松城(こまつじょう)の丹羽軍の情報を探りながら、まずは、松任城(まっとうじょう)に入場した。
七月二六日、能美の和田山城に逗留。
本格的に、小松城攻めの気配を見せる前田軍。
しかし、小松城攻めを主張する利長の弟「前田利政」(まえだとしまさ)と、危険性の高い小松城をおき、大聖寺攻めを優先とする高山右近(たかやまうこん)との間に意見が割れた。
「目先の小松城を先に落とすのが常套手段であろう」
「わが隊のみで充分、小松を落とす」
武断派の利政は強気である。
「それは無理でござろう」
「長重は、小松城に篭るのは見えてござる」
右近も譲らない。

和田山城「本丸跡」

②前田利政、 高山右近(高山長房)2つの主張

このやり取りを見ていた利長は、溜息をつく。
<どちらでもよいが・・・>
利長の胸中は複雑であった。
もともと今回の出陣に関して、乗り気だった訳ではない。
家康に心底屈服している訳でもない。
母を人質にとられた前田家として、旗幟を鮮明にしただけに過ぎなかった。
<今は、無駄な血を流す時ではないか>

古墳群の地を城砦化した

③利長、大聖寺へ兵を進める

まだ利長の心には、長重がこの大軍をみて降参してくる事を祈っていた。
そして、中央へ急ぐ意味も未だに探し続ける。
大聖寺城を、先に落とす」
利長のこの一言で、一応の場が収まったが、利政を含む武断派は不服そうである。
利政は、渋々承知し部屋を退出した。
その姿を見て、利長が苦笑する。

大聖寺城跡

3.高山右近と加賀前田家

高山右近(たかやまうこん)は、日本の歴史の中でキリシタン大名として有名な武将である。
当時の名を高山長房(たかやまながふさ)とした右近は、摂津国に生まれ、父の友照と共に松永久秀(まつながひさひで)、和田惟政(わだこれまさ)、荒木村重(あらきむらしげ)に仕える。
右近の居所と言えば高槻城(たかつきじょう)である。
高槻城の城主となったのは、荒木村重の後援を受け、主家である和田家との事件の時であった。
右近は、織田信長(おだのぶなが)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から重用され、山崎の合戦、賤ケ岳の戦い、小田原の陣など数々の戦いに参陣。
頭脳明晰で、戦巧者としても知られる。
そんな右近であったが、秀吉のバテレン追放令により人生が一転。
生粋のキリシタンである右近は、自ら大名の座を捨てた。
後に、右近の才を惜しんだ秀吉が千利休(せんのりきゅう)を説得に向かわせた程の逸材であったという。
そして、その逸材「高山右近」を手に入れたのが加賀の前田利家であった。
右近の金沢における功績は大きい。
そのひとつが、現在にも残る金沢城(かなざわじょう)の惣構(そうがまえ)である。
金沢城は、北に浅野川、南に犀川という天然の要害が存在し、堀は存在するが規模は小さい。
しかし、「内惣構」と「外惣構」を要し幅は小さいものの、深さ10メートル近い防御力に優れた構造となっている。
城の縄張りに精通した右近は、後に越中「高岡城」の縄張りも手掛けた。
最終的には、徳川家康のキリシタン国外追放令を受け金沢を去る右近であるが、千六百年の北陸の関ヶ原には、利長に従い参陣。
小松城、大聖寺の攻城戦に活躍を見せている。

千代城跡(小松市)★第2章・北陸の関ヶ原昂揚!小松「千代城」へ前田軍動く


1件のコメント

山口宗永と大聖寺城に伝わる加賀の戦国史 · 2022年10月30日 4:06 PM

[…] 1600年当時の大聖寺城の城主は、山口宗永である。この永宗は、何とあの「小早川秀秋」の家臣であった。慶長の役(けいちょうのえき)の時、秀秋が秀吉の怒りを買い筑前から越前に転封された。その時に、秀秋の家臣であった宗永も従い大聖寺城主となっている。しかし、その後は、秀吉の直臣となって正式に大聖寺六万石の国持大名となる。そして1600年の関ヶ原の戦いと同時期、徳川家康への旗幟を鮮明にした加賀の前田利長が中央へ進軍するために能美「和田山城」から小松、加賀へ侵攻。小松城主の丹羽長重を破り、加賀大聖寺城へ攻めかかる。山口宗永、修弘、弘定の親子は、利長の降伏勧告を拒否し奮戦するも遂に降参の意思を示すも拒否される。戦国の男「玄蕃宗永」は、嫡男「修弘」と自害し大聖寺城は陥落する。 […]

コメントを残す

アバタープレースホルダー

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です