1.金沢戦国物語・第2章本文

加賀の国に真宗王国(しんしゅうおうこく)あり。
本願寺(ほんがんじ)門徒が本拠を尾山(現在の金沢城)に移し、それから百年の時が流れた。
1580年(天正8)の頃であろうか。
戦国の覇王、織田信長の北陸侵攻。
織田軍団は、北陸、加賀に侵攻を開始した。
守る加賀・金沢方は本願寺門徒、一向宗である。
攻め方は、織田軍北陸征伐軍の先鋒「佐久間盛政」(さくまもりまさ)であった。
盛政は、若松、湯涌、北袋方面など、御神造城(東町)、椿原山ホウ(天神町・現在の椿原天満宮隣接)を攻め落とし、一向宗の本拠「尾山」に攻めかかった。
結果は、織田軍の圧勝。
その後は、最終決戦となる鳥越城の戦いに続くわけであるが、その間に利家は、宗徒の扱い、一向宗との関わりをこの戦いを通じて得る事が出来た。
後の金沢城下町に、その経験を生かしたのである。
英語版「English version of Kanazawa Castle.

③寺町寺院群と宗派の関係 | ここでも記憶を★妙立寺(忍者寺)

2.ライトアップが人気!金沢城の「石川門」の歴史

今では、「金沢城ライトアップ」で有名な金沢屈指の観光スポットである『石川門』(いしかわもん)。
重要文化財に指定されている石川門は、かつて金沢城(かなざわじょう)の搦手門(からめてもん)と呼ばれる裏門として機能していた。
枡形(ますがた)と呼ばれる複雑な構造であり典型的な織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)である。
織豊系城郭とは、主に織田信長(おだのぶなが)から豊臣秀吉(とよとみひでよし)時代に用いられた城郭の特徴で、その一つの特徴が虎口(こぐち)にある。
喰違虎口(くいちがいこぐち)、桝形虎口(くいちがいこぐち)などがあるが、いずれも寄せ手が容易に城内侵入を出来ないようにする役目を持っていた。
石川門は、桝形虎口であり天下名城「大阪城」(おおさかじょう)や「江戸城」(えどじょう)と同じである。
利家は、信長そして秀吉から築城術、そして文化を受け継いでいた。
観光客の方によく金沢城の天守閣(てんしゅかく)と勘違いされる石川門であるが、その美しさから現在における金沢城のシンボルとして間違いない。
鉛瓦葺(なまりかわらぶき)、そして白亜の塗籠壁(ぬりごめかべ)、海鼠壁(なまこかべ)が魅力的であり、さらに季節毎のライトアップイベントも開催され沢山の観光客が訪れる。

石川門(金沢城)[金沢市丸の内]

3.佐久間盛政と尾山城

佐久間盛政(さくまもりまさ)は、織田信長の家臣として数々の戦功をあげ、その勇猛さから「鬼玄蕃」(おにげんば)と称された武将である。
盛政は、信長の北陸侵攻時には主に親父として慕った「柴田勝家」(しばたかついえ)の配下として活躍する。
越前朝倉氏征伐、越前一向一揆征伐、そして加賀侵攻。
特に加賀侵攻時には、勝家に代わり前田利家と共に主力として戦った。
1577年(天正5)手取川の戦いにて織田軍団は、上杉謙信と激突。
「上杉に遭ふては織田も名取川 はねる謙信逃ぐるとぶ長」
後の手取川周辺の村々に、このような歌まで語られる程の大敗北であった。
しかし、この敗戦の中でも盛政は、小松の御幸塚城(みゆきづかじょう)で上杉軍を食い止めることに成功。
また、1580年(天正8)には、鳥越城の戦いにて「鳥越城」(とりごえじょう)を攻略。
その二年後の1582年(天正10)には、加賀一向一揆にとどめを差し加賀国の半国を領する大名となっり後の金沢城である「尾山城」の城主となる。
前田利家が、能登「小丸山城」(こまるやまじょう)に移ると盛政は尾山城より利家の能登侵攻を支援。
柴田勝家を慕う同輩として盛政と利家の良好な関係が続いた。
しかし、1583年(天正11)、賤ケ岳の戦いにおいて利家の裏切りで柴田軍が劣勢となり、盛政は奮戦するも戦場離脱。
敗走中に捕縛され死罪。
勇猛「鬼玄蕃」に代わり、利家が尾山城に入り後の金沢城主となる。

かつて尾山御坊と呼ばれた尾山城「金沢城」


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