『手取川の戦い』開戦
暴風雨の中に怒声が飛び交う。
「上杉が来る!!!!!」
織田軍は、「上杉謙信」率いる上杉軍の怖さを、嫌というほど聞かされている。
戦国最強の騎馬軍団と謳われた武田信玄率いる武田軍と、肩を並べる精強な騎馬軍団の話を想い起こし錯乱する柴田軍であった。
“ドドドドッーー”
上杉騎馬隊が、織田軍最後尾を捉えた。
通常であれば、最後尾のしんがり部隊が迎え撃つ。
当然、織田軍のしんがり部隊も反転するものと思われた。
そして、ここが乱戦となる筈でもあった。
しかし、織田軍の殆どが我先に逃げ惑う。
上杉軍が追いつき、槍を掲げて襲い掛かり、一方的な殺戮が繰り返された。
追う上杉軍に、川へ飛び込む織田軍。
この時、手取川は暴れ川と変貌しており、次々と織田兵を飲み込んでいく。
逃げ遅れた兵士は、上杉軍の槍の餌食となっていった。
明け方となった頃には、織田軍は討ち取られた者。
または、川に呑み込まれた者。
合わせて、二千人を越えるという被害を出していた。
織田軍の惨敗である。
無事に手取川を渡った柴田勝家は、小松の今江城(御幸塚城)に辿り着き、北陸「手取川の戦い」が終結する。
謙信恐るべし。
今でも、当時の状況が語り伝えられ、これからも永遠に語り継がれるであろう。
手取川に伝わる「はねる謙信、逃るとぶ長」
上杉に逢ふては織田も名取川(手取川)
はねる謙信、逃るとぶ長
手取川に建つこの碑は、当時、中央を席巻し日ノ本における最大勢力を誇る織田信長の力を認めたもの。
そして、その織田信長をも戦場においては凌駕した越後の龍「上杉謙信」への畏怖が伝わるもである。
軍神と称された謙信率いる越後勢の噂が誠であった地元の民達の想いが十分に伝わる詩ではないだろうか。
また、湊町にある呉竹文庫(ヨ146番地)からは、白山連峰とともに手取川の合戦跡も遠望できます。
手取川戦国物語~手取川の戦いからシミュレーションする「はねる上杉謙信」と「逃る織田信長」
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石川門★金沢戦国物語②利家、金沢城へ | 一向宗との戦いから得た真宗王国の改造 · 2023年2月25日 9:29 PM
[…] 佐久間盛政(さくまもりまさ)は、織田信長の家臣として数々の戦功をあげ、その勇猛さから「鬼玄蕃」(おにげんば)と称された武将である。盛政は、信長の北陸侵攻時には主に親父として慕った「柴田勝家」(しばたかついえ)の配下として活躍する。越前朝倉氏征伐、越前一向一揆征伐、そして加賀侵攻。特に加賀侵攻時には、勝家に代わり前田利家と共に主力として戦った。1577年(天正5)手取川の戦いにて織田軍団は、上杉謙信と激突。「上杉に遭ふては織田も名取川 はねる謙信逃ぐるとぶ長」後の手取川周辺の村々に、このような歌まで語られる程の大敗北であった。しかし、この敗戦の中でも盛政は、小松の御幸塚城(みゆきづかじょう)で上杉軍を食い止めることに成功。また、1580年(天正8)には、鳥越城の戦いにて「鳥越城」(とりごえじょう)を攻略。その二年後の1582年(天正10)には、加賀一向一揆にとどめを差し加賀国の半国を領する大名となっり後の金沢城である「尾山城」の城主となる。前田利家が、能登「小丸山城」(こまるやまじょう)に移ると盛政は尾山城より利家の能登侵攻を支援。柴田勝家を慕う同輩として盛政と利家の良好な関係が続いた。しかし、1583年(天正11)、賤ケ岳の戦いにおいて利家の裏切りで柴田軍が劣勢となり、盛政は奮戦するも戦場離脱。敗走中に捕縛され死罪。勇猛「鬼玄蕃」に代わり、利家が尾山城に入り後の金沢城主となる。 […]