1.手取川戦国物語・第一章

天正五年秋(一五七七)、加賀に越前国・北ノ庄城主「柴田勝家」を総大将とした織田軍団が手取川へ集結した。
集結軍には丹羽長秀、滝川一益という大身のほか、前田利家、佐々成政、佐久間盛政
など総勢七万。
その中には羽柴秀吉も加わっている。
勝家と秀吉はそりがあわない。
当然、戦術の食い違いがあった。
勝家は強気である。
「この大軍であれば上杉であっても恐るに足らん」
「一気に雌雄を決するべき」
秀吉は当然反論する。
「上杉を侮りすぎでは」
〈おのれには勝てんわ・・・〉
秀吉にそう言われれば勝家としても引き下がれない。
他の諸将達も困惑している。
そこに佐久間盛政が秀吉を恫喝した。
「戦う気がないのであれば、帰ったら如何か」
武断派勝家、盛政。
器用な秀吉とのこの不仲は数年後、「賎ヶ岳の戦い」でぶつかることになる。
「あい分かった!この負け戦、付き合いきれぬ」
捨て台詞を残し、秀吉は陣払いにかかった。

獅子吼高原から見る手取川方面

2.白山市の石川ルーツ交流館

白山市「石川ルーツ交流館」は、「石川県」「北前船」「ジオパーク」がテーマの交流館である。
石川ルーツ交流館のある旧「石川郡美川町」は、1872年(明治5年)に県庁が置かた場所であり、初代県令には、薩摩藩士「内田政風」が就任した。
薩長の影響力が大きく関係する。
政風は、生麦事件で有名な薩摩藩主「島津久光」の側近として活躍した元武士である。
当時は、薩摩に恨みを抱く元加賀藩士も多く存在。
金沢ではない、この地「美川」に県庁を置いたのは、加賀藩のお膝元である金沢を避けるため、そして、海に近い三河にて即脱出を可能とするためとも言われている。
石川県名の由来となる旧石川郡と、そのルーツをは、石川ルーツ交流館で学ぶことが出来る。

手取川近くにあった旧石川県庁「石川ルーツ交流館」

手取川戦国物語探訪★第二章 勝家消沈!七尾城落城~手取川を渡る柴田勝家、しかし、「七尾城」落城の報が届く


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