1.柴田勝家の「北ノ庄 」 入りと 「府中三人衆」

長年に渡り、戦国朝倉氏五代が治めた越前国。
主は、朝倉家から織田家、一向宗と支配者が代わり、再び織田家の支配下となる。
北陸の一向宗殲滅に本腰を入れた織田信長は、十万以上の大軍団を送り込み、遂に越前・加賀の一向宗を駆逐する。
一向宗を越前より駆逐した信長は、柴田勝家を北陸軍団長とし北の庄を与えた。
その後、北陸制圧軍として、加賀に侵攻し、加賀一向一揆との戦い、上杉謙信との「手取川の戦い」などで戦う。
また、府中には、「前田利家」「佐々成政」「不破光治」が入り、府中三人衆として勝家を補佐した。

2.「北ノ庄の戦い 」 そして、 柴田勝家とお市の悲劇「北ノ庄城」

北ノ庄に入った勝家は、南北朝時代から存在した城郭の後に、1575年(天正3年)新たに北ノ庄城を築城。
足羽川と吉野川を巧みに生かし、足羽山の笏谷石を使用した石垣は、見事なものであったと伝えられる。
ちなみに、現在の福井県丸岡にある柴田勝豊が築城した丸岡城も同じく笏谷石を使用していたらしい。
天守は、7層あったと伝えられるが、主君である信長の気性を考えると、いささか信じ難いところがあるが、立派な城であったことは、間違いないであろう。
また、足羽川には、勝家によって約100の橋が築かれたが、船を連結させた汎用性の高いものであった。
豪傑で名を知られる勝家であるが、上記のような縄張りを構築することから、築城術そして、町造りにも才能をいかんなく発揮した。
残念ながら、1583年(天正11)に北ノ庄の戦いにて、羽柴秀吉により、妻「市の方」と共に自害するという非業の死を遂げる。
悲劇の城として伝わる『北ノ庄跡』は、今でも沢山の観光客が訪れる。

足羽山の瑞源治

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