1.家康の魔の手が利長に伸びる

“利家死す”
<やっと、この時が来た>
家康が歓喜する。
利家のいない前田家。
利家の嫡男、利長は利家葬儀のため金沢へ帰っていた。
幼い豊臣家の世継ぎ、秀頼を守り立て豊臣政権を守る。
これが前田家の方針であり、亡き利家の遺言でもあった。
しかし、その時事件が勃発。
”利長謀反”
この噂は、瞬く間に日ノ本六十四州に広がった。
百万石を誇る大大名、前田家を、そのまま放置しておく訳にはいかない。
これは、家康が流した流言であり、罠であった。
遂に、家康が前田家に仕掛けたのである。
家康は、利長の母、芳春院(まつ)を人質に要求する。
”そなたでは、徳川殿には敵わぬ”
一戦を交える覚悟の利長であったが、芳春院に説得され、泣き泣き徳川の軍門に降ることになる。

お松の方「芳春院」像~金沢市尾山(尾山神社内)

小松プロローグ③ | 小松の剛勇、丹羽長重

2.番外!利長探訪~利長が眠る「瑞龍寺」を巡る

前田利家の死後、家康により苦難の道を歩み続ける加賀前田家二代当主「前田利長」。
利家と比べられること「凡将」と評価される利長であるが、経験を重ねながらも見事に加賀百万石を守り抜く。
最終的には、越中富山を含め百二十万石という広大な石高を有する大大名と成長していた。
家康により鍛えながら戦国の世を生き抜いた利長は、弟の利常に当主の座を譲り自身は、越中高岡に隠居する。
そして現在の高岡市には、利長の菩提寺となる瑞龍寺が国の重要文化財に指定され建築物としても高く評価されている。


2件のコメント

岩剣城(いわつるぎじょう)の戦いで、島津義弘が祁答院良重を撃破 · 2022年12月7日 7:52 PM

[…] もともと蒲生氏は、藤原北家を祖とする藤原一族である。藤原秀郷を祖とする近江の蒲生氏。藤原教清を祖とする九州の大隅の蒲生氏が存在する。ちなみに、戦国武将で名高い「蒲生氏郷(がもううじさと)」は、近江の蒲生氏と伝わる。戦後期における大隅の蒲生氏、すなわち大隅蒲生氏十六代当主「蒲生茂清」は、薩摩島津家と対立していたに渋谷氏一族と手を組み、島津貴久と戦うこととなる。その後も、祁答院氏に組みすることで、島津家からの攻撃を受けることとなり「岩剣城」に危機が訪れた。これが「岩剣城の戦い」である。島津貴久率いる島津軍は、義久、義弘、歳久という後の英雄達を主力に岩剣城に激しく攻めかかった。そして、遂に「岩剣城」が落城。その時には、蒲生氏も茂清から、十六代当主「蒲生範清(かもうのりきよ)」と代わり、範清が降伏。降伏した蒲生家は、十五代当主充清の子「清親」の嫡男「清綱」が蒲生氏十八当主となり、以降、島津軍の一員として戦国末期を生き抜くことなる。一方範清は、島津に服従することを拒み、入来院氏を頼り歴史上から姿を消した。また、範清の孫は、加賀の前田利長(瑞龍院殿聖山英賢大居士)に仕えたと伝わる。 […]

前田利長の菩提寺「瑞龍寺」から見る前田利常の想い · 2023年1月29日 9:18 PM

[…] 前田利長は、「前田利家・利長軍記」、「小松戦国物語」などで度々登場する戦国武将である。青年期は、北陸の関ヶ原と謳われた「浅井畷の戦い」や「木場潟の戦い」でも見られるように戦があまり得意でもなく、優柔不断と描かれることが多い。しかし、晩年は、徳川家康を相手に見事な立ち回りと、異母弟「利常」を次期藩主とする人間性など最近では評価を見直されている。(小松プロローグ② | 悩める前田利長~家康の策略を参考)院政をすることもなく、利常に全てを委ね、そして静かに舞台から身を引いていく。前田利長とは、豪傑とは異なる人徳の漢である。 […]

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