1.ストップ徳川家康、唯一の存在である大納言「前田利家」

1698年(慶長3)、天下人「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)がこの世を去った。
秀吉の死、それは日ノ本が再び乱世に戻ることを意味する。
秀吉は、自らの死後を想定し、五大老、五奉行制を引いた。
五大老とは徳川家康、前田利家を筆頭に上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家であり、一方五奉行には石田三成、浅野長政、増田長盛、前田玄以、長束正家が名を連ねる。
そして、秀吉の死後、待ってましたとばかりに家康の野心が露わになる。
家康は、御法度である大名間の縁組、豊臣恩顧武将の取り込みを行い、天下取りに向け蠢動する。
そのような中、この家康を唯一止めることが出来る者が一人いた。
大納言「前田利家」である。
利家がいたからこそ、家康の動きは裏工作のみで留まっており、それだけ家康が恐れていたことが伺われる。
しかし、慶長四年(1599)、ついに利家がこの世を去った。

若き日の「前田利家 」像(尾山神社)

2.豊臣政権の五大老・五奉行制

①五大老とは

大老(たいろう)、奉行(ぶぎょう)の職名が正式であったかは別とし、本説明は、大老、奉行として記載する。
五大老(ごたいろう)は徳川家康(とくがわいえやす)、前田利家(まえだとしいえ)、毛利輝元(もうりてるもと)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)が就いた。
家康は当然の如く、利家、輝元、景勝は百万石を有する大大名であり順当である。
景勝に関しては、毛利両川の一角「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)の死と同時に代役としてエントリーされた。
その他の候補としては、薩摩の島津氏、奥州の伊達氏の名前が挙がってもよさそうであるが、この両氏は、前田、上杉、毛利が早々に秀吉に臣従したのに対し、外様中の外様大名である。
また、秀吉の心中としては、上記の三氏と比べて扱いにくい存在でったのが正解と思われる。
そして、五人目の大老「宇喜多秀家」であるが、五十万石を有する大大名であり秀吉より「秀」の字を与えられた猶子(ゆうし)であったためである。
しかし、同じく猶子(ゆうし)であった小早川秀秋(こばやかわひであき)は、秀吉から疎んじられており除外。
秀吉の死後は、秀吉の思惑通り五大老の内、家康を除く四大老が秀吉の子「豊臣秀頼」(とよとみひでより)擁立に向け親豊臣として動く。

五大老・五奉行制

②五奉行とは

五奉行(ごぶぎょう)は石田三成(石田三成)、浅野長政(あさのながまさ)、増田長盛(ましたながもり)、前田玄以(まえだげんい)、長束正家(なつかまさいえ)が就く。
五大老と五奉行の違いは何か?
現在でいうと五大老は大臣。
奉行は、事務次官のようなものと考えると分かり易い。
立場上は、大老が上であるが実際は、奉行が行政を仕切っていた。
秀吉の死後の五奉行は、三成、正家以外は、ほぼ豊臣家を裏切った。
関ヶ原の戦いでは、三成を嫌う大名が数多く存在し家康は、見事にそれを逆手に取り勝利する。
最終的には、親豊臣を貫いたのは、五大老の上杉景勝、宇喜多秀家。
五奉行の石田三成、前田玄以の四人のみであった。

小松プロローグ② | 悩める前田利長~家康の策略


0件のコメント

コメントを残す

アバタープレースホルダー

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です