1.コース案内
一乗寺城 → 龍ヶ峰城跡 → 能登末森城跡 → 秀雅上人像 → 富山城
2.本文(倶利伽羅観光コース)
1.時は、戦国時代。
そして尾張の国、現在の愛知県。
この地から、戦国の覇王「織田信長」が天下統一の道へと動き出す。
2.信長には、柴田勝家などのほか、
有能な家臣が沢山いた。
佐々成政、前田利家、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)
これ皆すべて、尾張出身である。
3.しかし、1582年。
織田信長が本能寺の変でこの世を去り、
信長に代わり、羽柴秀吉が
織田軍団を継承し、権力を掌握する。
4.佐々成政、前田利家の胸中は、複雑であり、
穏やかではなかった。
己よりも身分の低い秀吉が偉くなってしまったのである。
5.そこで1583年、成政と利家の親分格であった「柴田勝家」が秀吉と戦った。
賤ケ岳の戦いである。
6.秀吉と利家は、親友でもある。
そのことからも、この戦いで利家が勝家から秀吉に寝返った。
ここから、成政、利家。
二人の確執が生まれることになる。
7.賤ケ岳の戦いに勝利した秀吉に味方した前田利家は、金沢城を拠点に加賀へ。
佐々成政は、富山城を拠点に二人の間で争いが激化。
前田・佐々抗争の幕が開かれる。
8.1584年、佐々成政率いる佐々軍が、
「一乗寺城」から前田軍の朝日山城を急襲。
9.前田軍も負けていない。
津幡城主「前田秀継」が「龍ヶ峰城」を攻略。
加賀と越中の国境倶利伽羅を境に両者一歩も引かない。
10.一進一退の攻防が続くなか
遂に、前田・佐々抗争最大の決戦能登「末森城の戦い」が始まった。
一万を超える大軍で能登末森城を攻める成政であったが、
前田軍の逆転勝利。
11.前田軍勝利における要因の一つとして、
倶利伽羅出身の高僧であり後の秀雅上人の活躍があったと伝えられる。
12.末森城攻略に失敗した成政は、富山へ退却し、
富山城の防御を固める。
利家の主君となった秀吉の出陣に備えるためだ。
13.1585年。
遂に関白「豊臣秀吉」が、北陸に出陣。
倶利伽羅峠に本陣を引く。
14.富山城天守に失意の成政が立つ。
今、秀吉の陣にいる者達は、丹羽、池田、金森はじめ、
前田利家も秀吉より身分が上位であった者達ではないのか・・
衆寡敵せず。
15.最後まで抵抗した「漢」佐々成政、遂に降伏。
ここに倶利伽羅峠を舞台に繰り広げられた
「前田・佐々抗争」が終結する。