1.津幡「白鳥神社」と木曽義仲の因果

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の時代、津幡に白鳥が舞い降り、それを捕らえて天皇に差し出した。
天皇は、「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の魂が白鳥となって飛び去った」という話を思い出す。
そして、「この地は、尊の魂のおとどまりになったところと」考えたことから、この地に尊を祀られた。
これが、石川県津幡町加賀爪の「白鳥神社」(しらとりじんじゃ)の由来である。
日本武尊を祭神とし雨乞(あまごい)の霊験で知られ、祈雨祭(きうさい)で有名な津幡の白鳥神社。
実際に、嘉永7年に奉納せられた雨乞報謝の絵馬が現存する。
また、白鳥神社の境内には「雨乞い池」と呼ばれる池があり、真夏の炎天下でも枯れることなく神秘の水を溜めている。
これも雨乞の霊験、そして日本武尊の霊がなせる業か。
さらに白鳥神社は、雨乞伝説のいにあらず、木曽義仲(きそよしなか)の因果も。
木曽義仲(源義仲)は、倶利伽羅峠の戦いで平家軍を破ったことで有名な源氏の武将である。
その義仲率いる源氏軍が源平合戦の折に挙兵したのも、長野県「白鳥神社」を前にした千曲川原(白鳥河原)であった。
津幡に馴染みの深い木曽義仲と白鳥神社、そして長野の白鳥神社。
津幡の白鳥神社と長野の白鳥神社は、同じく日本武尊を祀る。
両神社の歴史を掘り起こすと、木曽義仲をキーワードとした因果が解明されるかもしれない。

津幡町加賀爪「白鳥神社」

2.井上庄「白鳥神社 」 と「井家二郎範方」

白鳥神社がある津幡町加賀爪(つばたまちかがつめ)は、中世は井家庄(いのうえしょう)に属していた。
井上の総社だったという白鳥神社は、「井家二郎範方」(いのいえじろうのりかた)の本貫地だったと伝わる。
範方は、源平合戦において源氏に加勢した。
1183年(寿永2)4月、平維盛を総大将とした平家軍が旧北陸道へ北上開始を開始する。
一方、源氏に加担した加賀における在地勢力も越前「火打城」(ひうちじょう)に集結。
範方も越前に入った。
そして両軍が激突し「火打城の戦い」が口火を切る。
戦いは、平泉寺の長吏「斎明」(さいめい)の裏切りにより火打城が落城。
井家範方は、加賀にて陣を立て直し防戦したが多勢に無勢。
その後、安宅の戦いにも敗れた範方は、味方軍に越中方面への撤退を促し、自らは配下を引き連れ現在の能美市(旧根上町)で敵を食い止めた。
最後は、殿(しんがり)を務めた範方率いる17騎は、平家軍の大軍の中に突撃を掛け討ち死にする。
その地は、現在の能美市高坂町「根上の松」といい、旧町名「根上町」は、根上の松に由来する。
現在も根上の松には、井家二郎範方の武勇が語り継がれている。

3.長野県の「白鳥神社」と海野氏

長野県「白鳥神社」の創建は、奈良から平安にかけてと伝わる。
大鳥神社(おおとりじんじゃ)との関連が強い白鳥神社の祭神は、日本武尊である。
伊吹山の神退治に出かけた日本武尊は、病に冒され能煩野(のぼの)でこの世を去る。
そして、白い鳥となって飛び去った。
その後、舞い降りて白鳥神社として祀られたと伝わる。
長野県の白鳥神社は、本海野の地にあり、真田氏の祖「滋野一族である海野氏」の氏神として祀られた。
その約1400年後、千曲川原・白鳥神社から打倒平家を掲げた木曽義仲が挙兵する。

長野県千曲川

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