1.加賀藩の設けた朝日町の「堺関所」と「堺一里塚」

1614年(慶長19)に加賀藩が正式に関所として整備したが、まだ戦国時代が終わり間もない時であった。
大坂夏の陣は、1615年(慶長20)であったことから、それ以前に堺関所が存在したことになる。
当時は、既に加賀藩前田家領であったのである。
越中側の加賀藩前田家に対し、越後側は、高田藩松平家であった。
関ヶ原の戦い以前から越後は、上杉家から堀家の所領であったが、1614年時点では、松平忠輝が高田藩六十三万石にて新領主となっている。
当然の如く、高田藩も「市振関所」(いちぶりせきしょ)を設け、街道の取り締まりを強化した。
堺関所跡の周辺には、街道を通過する者が必ず通らなければならない「御関所大門」、江戸日本橋を起点に一里(四キロ)毎に設置した「堺一里塚」も存在し、特に真冬の海岸線では、荒々しい日本海が望める。

朝日町の「堺関所」

2.周辺には、北陸宮を迎え入れた宮崎城も

朝日町の史跡には、堺関所跡のほか源平の戦いで有名な「木曽義仲(源義仲)」が「以仁王」(もちひとおう)の第一皇子「北陸宮」(ほくろくのみや)を迎え入れた「宮崎城」(富山県下新川郡朝日町城山)も楽しめる。
木曽義仲は、信濃から越後を経て越中へ進軍。
越中朝日の宮崎太郎の館にて「北陸宮」の元服式を行った。
北陸宮による戦いの正当性「錦の御旗」を得た義仲は、北国街道を西に進み、倶利伽羅峠にて平維盛率いる平家軍と激突。
その後、倶利伽羅峠の戦いに勝利した義仲は、上洛を果たし「旭将軍」(朝日将軍)の称号を得る。
しかし、義仲の快進撃はここまでであった。
義仲は、義仲を危険視した源頼朝の弟「源義経」に敗れこの世を去る。
もし、義仲が源頼朝、義経兄弟を破り天下を取った場合、北陸宮を庇護した宮崎太郎、そして越中朝日の街はさらに栄えていたかもしれない。
また、時代が違えど上杉謙信も果たせなかった上洛戦(実際の軍を率いての上洛)を見事に果たした。
北国街道には、まだまだ歴史ロマンがある。

義仲軍が駆け抜けた倶利伽羅「旧北国街道」

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