1.プロローグ~物語が、「手取川の戦い」になるまでの歴史をご案内。

①白山の恩恵、手取川 (てどりがわ)

手取川。
この川の名称には、様々な説が存在する。
源平倶利伽羅の合戦に勝利した「木曾義仲」軍が、急流であるこの川を、手を取り合い渡ったとする説。
それが義仲ではなく、義経であったとする説。
また、氾らんの度、渡るのに“手間どった”など。
真実は一つであるが、説とは、いつの時代であってもロマンを感じさせるものである。
この手取川は、霊峰白山の恵みを、海に伝えまた、多くの美食を生み出すと同時にある時は、暴れ川となり人々を恐怖に陥れる。
まさしく、人知を超えた生きものともいえよう。
暴れた川は、村を孤立した小島と変え、景観を一転させる。
島がつく地名が多いのはこのためであり、その一つ水島は戦国期の要衝であった。

②加賀の一向一揆時代

白山市の水島春日神社

百姓の持ちたる国“加賀”。
ここは紛れもなく、一向宗支配の地であった。
加賀一向宗の勢力は大きく、隣国である「越前の名門朝倉氏」などの大名とも、たびたび争った。
しかし、長きにわたり存続した一向宗支配も、本願寺十一代法主「顕如」が時の権力者、織田信長を相手に劣勢になったことにより、危機に陥る。
覇王信長の一向宗掃討は厳しく、長島一向一揆、越前朝倉家殲滅後の越前一向一揆が鎮圧され、ついに加賀一向宗にも魔の手が伸びた。
南加賀の一向宗拠点も次々落とされ、長きに渡った加賀国の一向宗支配も風前の灯火となる。
一向宗から織田信長へ支配が移り代わり始め、日の本は、もはや信長の時代と想われた。
しかし、そんな矢先、真の強者が動き出し加賀国を再び動乱に陥れる。

③織田信長の絶頂期

北陸支配に、信長が着手してから数年。
近江の浅井氏と越前朝倉氏を、滅ぼし遂に魔の手は越前・加賀国境にも伸びる。
芦原、勝山の一向宗掃討である。
信長は、北陸方面制圧隊に柴田勝家を総大将とし、佐々成政、佐久間盛政、前田利家など蒼々たる面々を送り込んだ。
加賀の拠点「尾山御坊」、鳥越城を睨んだ加賀制圧である。
中国の毛利家、四国の長曾我部家など多方面への進攻を同時に行い、最大動員兵力は十万とも二十万とも数えられた。
宿敵本願寺も一時的であるが抑え、武田信玄もこの世にいない。
信長四十四歳、この時が絶頂期であった。

④越後の龍「上杉謙信」の上洛

越後の龍とも、軍神とも呼ばれる男「上杉謙信」。
もとの姓は長尾であり。天文十七年(1543)十九歳で家督を継ぐ。
兄「長尾晴景」との家督相続を制し、北条家に追われた関東管領「上杉憲政」を越後に迎え入れた事で人生が大きく変わる。
正式に上杉家の養子となり、上杉政虎と名乗る。
その後「輝虎」、「謙信」と改名しながら武田信玄との抗争を繰り返す。
信玄死後、関東の北条征伐に精力を注ぐ事により、天下取りには、今一つ縁がなかった。
しかし、義将と呼ばれた謙信を頼り、前将軍「足利義昭」が謙信に助けを求める。
謙信、この時四八歳。
遂に上洛を決意し、越後より京を目指し北国街道を西へ向かった。
加賀は、既に織田信長が蹂躙し、謙信は能登国へ兵を進める。
七尾城の戦いで、堅城「七尾城」に苦戦する謙信であったが、織田軍団との決戦準備を急いだ。

2.目次

戦乱手取川へ。
上杉軍の攻撃により、窮地にたたされた能登七尾城を救出すべく織田軍団北陸制圧隊が手取川南岸に陣を張った。
ここから手取川戦国ドラマが始まります。
上杉軍は強兵。
戦国五代山城と称される七尾城であっても、一刻も早く援軍を待ち望んでいるは必定。
先鋒は、既に手取川を渡った。
本隊も、暴れ川である手取川を渡り能登へ。
舞台は、手取川流域「水島」へ。
戦国時代になりきり、手取川の歴史ロードを歩みましょう。

上杉謙信と織田信長の決戦「手取川古戦場 」

第一章・不倶戴天!勝家と秀吉~手取川の戦い開戦前に、争う「勝家」と「秀吉」
手取川を挟み、柴田勝家と羽柴秀吉に亀裂がはしる。

第二章 勝家消沈!七尾城落城~手取川を渡る柴田勝家、しかし、「七尾城」落城の報が届く
救援のため、能登七尾城へ急ぐ柴田勝家。

第三章・上杉南下!松任城へ~「上杉謙信」率いる越後軍が加賀「松任城」へ入場する
電光石火の上杉謙信率いる「越後軍」、松任城へ入場。

第四章・織田軍大敗!名取川のように~はねる謙信、「手取川の戦い」における謙信の恐るべし戦術
逃げるとぶ長「手取川の戦い」。

3.その後の織田信長・上杉謙信の動向

①越後軍を率いる「上杉謙信 」 、突然の撤収

手取川の戦いに完勝した上杉軍。
織田軍より加賀の大半を奪いそのまま上洛、兵を西に進めると想われた。
しかし、金沢へ守兵を置き、一旦加賀制圧を完結。
突然、越後への撤収を始めた。
この撤収は関東の北条征伐を優先とした説、冬のため一旦越後へ帰還したとする説などが存在する。
一方、織田軍は敗れたものの、柴田勝家以下、有力武将に影響がなく、小松の御幸塚城を死守する事で、南加賀の支配権は確保した。
謙信は、この戦いの後、“織田軍は、弱いのでこの分だと天下統一は想うままであろう”と記している。

②その後の「上杉謙信」

越後へ凱旋した上杉謙信。
その後、再出馬前に謙信この世を去る。
天正六年(1578)、享年四九歳。
酒を好んだ謙信は、手取川の酒も好んで飲んだのではないだろうか?

 辞世の句
四十九年一夢の栄 一期栄花一盃の酒

謙信亡き後上杉家は、二人の養子(景勝、景虎)の間で家督争い
が勃発。“御館の乱”が起きる。
結果、景勝が家督争いを制し、謙信の後継者として以後、織田
信長と戦う事となる。

③織田信長、北陸制覇のゆくえ

本州最後の強敵「上杉謙信」が、この世を去り、まさに向かうところ敵無しとなった覇王「織田信長」。
謙信の二人の養子「景勝」、「影虎」の上杉家家督争いをよそ目に、能登に前田利家、越中に佐々成政を送り込む。
その後加賀、能登は利家など織田配下の諸将と一向宗の戦いで再び揺れる。

 天正十年(1582) 鳥越城の戦い
    ・・・戦の舞台は、白山麓へ続く

4.最後に

手取川戦国物語は、如何でしたか?
歴史には、いろいろな説が存在し、賛否両論がございます。
史実は、専門家の方にお任せし、本物語は、著者である私が、その中の1つの説を、物語にしたものであります。
皆様が実際に旅して頂いた事により、新たな説が生まれれば面白いのではないでしょうか?
戦国物語探訪シリーズには、手取川戦国物語以外にもたくさんの物語りがございます。
また、たくさんの観光地がございます。
お帰りには、是非お立ち寄りくだされば幸いであります。
最後に、本物語作成にあたり、御協力して下さった方々に、心から感謝の意を表します。
ありがとうございました。