1.津幡「加賀神社」の歴史
津幡町潟端(つばたまちかたばた)の加賀神社(かがじんじゃ)の祭神は、健御名方命、八坂刀売命、、誉田別命、前田綱紀公を祀る。
1673年(延宝元)、前田綱紀(まえだつなのり)により河北潟干拓事業が開始。
河北潟(かほくがた)は、金沢平野北部「津幡町」と「金沢市」「内灘町」「かほく市」にまたがる淡水湖である。
河北潟における大規模な干拓事業は、これが初めてであった。
そして、事業成功を祈願して健御名方命(たけみなかたのみこと)を祭神とする「諏訪神社」(すわじんじゃ)が建立される。
諏訪神社は、長野県の諏訪湖の近くにある諏訪大社(すわたいしゃ)を総本社とする諏訪信仰(すわしんこう)の神社である。
なぜ諏訪神社なのか?
河北潟を諏訪湖に見立てたのか、それとも前田家の物部説(もののべせつ)から来たものかは不明である。
その後、1909年(明治42)、諏訪神社が花園村利屋町七ツ屋の無格社「八幡神社」と合併することで「松雲神社」と改名。
さらに、前田綱紀公の戒名「松雲院殿徳翁」からとった「松雲」が問題視され最終的には『加賀神社』と改称し1915年(大正4)に県社となる。
加賀神社の経緯に関する記録は、「神社誌」「河北郡誌」「津幡町誌」によりまちまちである。
また、加賀神社(石川県河北郡津幡町字潟端ト10)に所蔵されている古文書の中には、水戸光圀から前田綱紀に宛てた内容も存在する。
2.河北潟干拓と潟端
河北潟干拓は、1673年(延宝元)、兼六園の作庭者でもある加賀五代藩主「前田綱紀」により始まり、1840年代には、「銭屋五兵衛」(ぜにやごへい)によって本格的に遂行される。
しかし、銭屋五兵衛埋立工事疑獄事件が勃発し銭屋一家は断絶。
工事完成を焦る五兵衛は、埋め立てに石灰を使用したのであった。
埋め立て場所付近の魚が死に、それが原因として以前から賃金の面で揉めていた地元住民から訴えられてしまう。
五兵衛の壮大な夢は、消え去った。
その後は、昭和38年から実施された「国営河北潟干拓土地改良事業」によって、河北潟の総面積約2千2百haの内、約千三百haが干拓され、現在の河北潟干拓地の姿になった。
干拓された河北潟には、田園風景が広がるとともに、夏の河北潟ひまわり村、河北潟牧場など観光スポットとなっております。
また、津幡町の潟端(かたばた)の地名は、河北潟の縁を干拓したことに由来する。
河北郡誌によると1673年(延宝元)、現在の金沢市「笠舞村」からはじまり、河北潟周辺の「二日市村」「八田村」「利屋町村」「大熊村」「小熊村」「北中条村」「川尻村」から現在の潟端に移住させた。
当初は、「太田新村」や「中条新村」と呼ばれていたとのこと。
しかし、河北潟干拓が進むと同時に本格的な村落となったことで正式に「潟端新村」と命名されたらしい。
その後、内七軒は、後に利屋町村に居住し「七ツ屋」と称した村も誕生。
現在の金沢市北部、津幡町も、その昔は、河北潟が中心となって地域が機能していたことが窺える。
ゆえに、古よりこの地一帯は、金沢北部も含め河北郡であったのである。
現在の加賀神社は、津幡町の太田、潟端を国道8号線が通り抜けることで、本来の入口が分かりづらい。
ちなみに、加賀神社の正式な入り口は、北中条の三輪神社と(みわじんじゃ)と同様に旧北陸道から入り鳥居が建っている。
潟端ストリート 旧北陸道の加賀神社入口
1件のコメント
白鳥の飛来地『河北潟』の歴史 · 2022年12月17日 9:35 PM
[…] 現在は、夏の河北潟ひまわり村、河北潟牧場ヨーグルトなど、親子連れの遊び場として人気が高い河北潟。河北潟は、金沢平野の北部に位置し、「金沢市」「内灘町」「津幡町」「かほく市」にまたがる淡水湖である。平安時代には、河北潟漁場として人々の暮らしを支えたほか、水上輸送路としての機能を担い、江戸時代から銭屋五兵衛の「河北潟干拓」事業が始まった。一度頓挫した干拓事業も昭和に入り再び再開。1964年(昭和39)から20年をかけて現在の姿になり、本格的な農産物生産が可能となった。上記にも記載したように、河北潟干拓については、銭屋五兵衛が有名であるが、それ以前には、規模の大きさは異なるものの、1673年(延宝元)、前田綱紀により河北潟干拓事業が開始されていた。その時の成功祈願のため建立したのが津幡町潟端の『加賀神社』である。 […]