“義久降伏”
それは、島津家の降伏を意味する。
義久の悪い予感が的中した。
義弘以下、歳久、新納忠元など屈強の者達が徹底抗戦の構えを崩さなかった。
義弘の狙いは薩摩のみではなく、大隈、日向の安堵。
これを、死守線と考えた。
九州制覇戦においても、実質総大将であった義弘が屈服しなければ、島津の戦いは終わらない。
ここ祁答院である宮之城の歳久も、徹底抗戦の構えをみせる。
歳久としては、もともと秀吉との戦いは無謀と判断していた。
しかし、一旦戦ったのであれば最後まで戦う。
しかも、後継となる忠隣をこの戦で亡くしている。
やはり考えは一つ、徹底抗戦であった。
その意味においては、守護代の義弘とは異なっていた。
お家を、第一に考えなければならない立場にて、結末を優位に導く義弘。
純粋に、武門の意地を貫き通す歳久。
そして、秀吉率いる大軍団がここ宮之城を通過しようとしていた。
秀吉が、三成に問う。
「歳久は、来ると申しておるのか」
「未だに返答は来ておりませぬ」
秀吉の再三に渡る警告を、歳久は無視し続けた。
「誠、頑固者とは聞いておったが」
「はあ・・しかし、この大軍を目の当たりにしたら流石の歳久も・・・」
秀吉は、わざと大軍にて宮之城を通過し、歳久を屈服させるつもりでいる。
そして、山崎を通過しようとした時。
“パパパーーン”
鉄砲の音が鳴り響き、秀吉軍の先鋒が慌しくなった。
「申し上げます。歳久軍の奇襲であります」
歳久軍が、秀吉軍斥候を斬り、奇襲をかけたのである。
しかし、秀吉は慌てない。
〈やはり来たか・・〉
「で、もう一人のわしはどうした」
秀吉は、歳久の気性を既に噂で聞いていた。
そのため、本来いる本隊には影武者を置き、自分自身は違う隊へ紛れ込んでいた。
歳久軍を、追い払いながら宮之城圏内を通過した。
本隊へ戻った秀吉が、籠を見る。
〈歳久め!!〉
そこには、一本の矢が見事に籠を貫通していた。
しかし、これが原因となり、竜ヶ水から平松神社の事件へと続く。

玄徳寺(鹿児島県薩摩郡さつま町山崎103)


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