梅北一揆と島津義久の決断

秀吉の九州征伐からわずか数年、日の本を統一した秀吉は太閤と名乗り、
朝鮮半島へ攻め入る。
当然、島津家にも出兵命令が下る事になる。
この時、既に島津家の当主は、義久から義弘へと代わっていた。
秀吉は、義弘の嫡男久保と島津歳久に出兵を促すものの、歳久は、病を理由に出陣しない。
それどころか、歳久家臣が佐敷にて一揆を先導した。
梅北一揆である。
その報が、直ちに秀吉の耳に届いた。
秀吉に「祁答院・宮之城における秀吉襲撃事件」が頭をよぎった。
「あやつめ、またしてもか」
当主義弘が、出兵している事から、島津家としての反乱とは考えづらい。
「歳久単独の行動か・・」
秀吉は、怒り狂った。
「国許に残っておる義久に、歳久の首をもってくるよう伝えよ」
それを聞いた義久は、歳久を諭すため再三に渡り使者を送り続ける。
〈歳久の考えは、変わるまい〉
歳久の、一旦主張すると引かない強情な気性を義久は、だれより知っている。
出来過ぎた弟義弘には、むしろ嫉妬心の方が強い。
義久は、義弘より歳久を可愛がった。
〈されどこのままでは、島津が危ない〉
義久が迷う事数刻、遂に決断を降す。
「歳久を、呼び寄せよ」

島津歳久公の菩提寺「心岳寺」

心岳寺と島津歳久の自害

歳久が、鹿児島へ向かった。
〈やはりそうか・・〉
島津歳久は、不穏な空気を察した。
鹿児島へ入るや、義久の手の者がそわそわしている。
歳久が、兵を止める。
すると、やはり義久兵の動きが、にわかに不自然な動きを見せた。
「歳久様が気付かれた。背後に回りこめ」
後ろへ回り込もうとする義久兵に気付き、歳久も一気に来た路を引き返す。
そこで、初めて刀を抜き小競り合いが始まった。
しかし、その小競り合いも島津兵らしからぬ生やさしいものである。
その小競り合いの合間をぬぐって、歳久は逃げ出し、小山を登った。
〈兄者に討たれるのであれば・・・〉
そこは、竜ヶ水といい、桜島が美しく見える。
後に、心岳寺となるが、現在は、島津歳久公を祭神とする「平松神社」が存在する。
「よいか。我が死に体を渡すな。雲の上にと答えよ」
家臣たちが応える。
「それがしも、殿に着いてゆきまする」
そこには、数百の歳久家臣達が座り込んでいた。
歳久が腹を斬り、続き家臣たちも迷わず腹を割った。
そこに、駆け付けた義久の家臣達は、唖然とした。
この前までは同士であった中であり、涙がこぼれる。
その後、義久もかけつけ歳久の首を両手で抱いた。

竜ヶ水「心岳寺」には、今でも島津歳久の辞世の句が残る

晴蓑めが玉のありかを人とはば
   いざ白雲の末も知られず

歳久公の辞世の句

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