薩摩島津17代当主「島津義弘」の誕生

関白秀吉に降伏した島津家。
その後、島津家守護は義久から義弘へ引き継がれ、十七代当主「島津義弘」の誕生となる。
義弘は、朝鮮の役にて大陸へ渡り、特に、慶長の役「泗川の戦い」では、董一元率いる明の大軍20万を破り「鬼島津」として恐れられた。
しかし、大きな問題も残った。
豊臣政権での位置付け、方針など。
先代でかつ兄「島津義久」との確執が、次第に深まっていく。
その状況の中で関ヶ原の戦いを迎える事になった。
関ヶ原の戦いにおいては、家康本陣の敵中突破を果たしながらも、薩摩国の意地を貫き通した義弘。
以降、徳川家による度重なる難題も乗り越え、前田家、伊達家と並び外様大名の最高位に君臨。
そして時代は幕末。
遂に、薩摩藩は徳川幕府を倒すこととなる。
今でも激動の地「薩摩」を、桜島が見守り、その桜島を望む島津家庭園「仙巌園」には、多くの観光客で溢れかえる。

桜島を望む「仙巌園」

島津義久と義弘の確執

豊臣秀吉は、九州平定後、薩摩にて絶大な権力を握る島津義久を警戒した。
薩摩の豪族達は、独立性が強く精強であることは、戦った秀吉が一番よく理解していた。
それら豪族達を、統率する義久が、豊臣政権における新しい体制を受け入れる意思がない事は、容易に想定が出来た。
それでは、都合が悪い。
秀吉は、当主の義久を無視する形で、義弘を優遇した。
それにより義久と義弘の関係が悪化する事も、秀吉にとっては、都合がよかったのである。
朝鮮の役が始まる頃、薩摩にも石田三成によって太閤検地が始まる。
この時も、義久は、積極的に三成に協力をしなかった。
一方の義弘は、薩摩諸将に三成の検地に協力するよう指示を出している。
そのような経緯から、豊臣政権では、義弘に政権の意向を伝え、義弘を17代当主として認めるている。
しかし、徳川家康は、義弘を当主として認めておらず、関ヶ原の戦いでは、それが様々な形で影響した。
義弘の当主説は、謎であり、様々な形で伝えられるが、島津家の資料には、義弘が十七代当主と記され、義弘公を祭神とする「精矛神社」にも十七代と記されている。

精矛神社による掲示

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