島津四兄弟の九州制覇戦と九州三国志

三州を統一した島津家は、その勢いに乗り、島津四兄弟による九州制覇戦に着手した。
当時九州には、島津家より強国が二つ存在する。
一つは、豊後の大友氏。
キリシタン大名にて九州一の勢力を誇る。
もう一つは肥前の熊「竜造寺隆信」。
大友氏に次ぐ九州の勢力であり、
この大友家、竜造寺家。
そして、薩摩島津家が九州三大勢力として君臨し、九州三国史とも呼ばれた。
この三者の争い、まずは島津、大友の間で始まった。
この境である北日向には、伊東家が存在し、その伊東家を島津が襲った。
伊東家は、大友家の助けを求め、その大友家との間で戦いが起きる。
九州キリシタン教国を夢見る大友宗麟は、寺社を破壊し、島津は後退を繰り返す。
勢いに乗る大友勢は耳川を渡った。
しかし、状況が一転。
戦いを優位に進めたのは、小勢の島津勢の方であった。
負けたと見せかけ、罠に誘い込む。
島津の「釣り野伏せ」である。
罠に掛かった大友勢は、大敗を喫し、次いで威信回復をかけた竜造寺家との戦いにも敗れ
九州争奪戦から脱落。
そうなると島津、竜造寺との戦いは自然の成り行きであった。
その戦いにも、島津が勝利し、いよいよ大友家にとどめを差すべく豊後府内へ侵入を開始する。

臼杵城跡(うすきじょう) 大分県臼杵市

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3件のコメント

九州三国志①島津四兄弟の九州制覇戦~戦国最強軍団が九州を北上 · 2023年2月14日 9:33 PM

[…] 1586年(天正14)、関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)は、中国の毛利輝元(もうりてるもと)、四国の長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し徳川家康(とくがわいえやす)をも従えた。全国制覇もほぼ完成しつつある。残るは関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)、奥州の伊達政宗(だてまさむね)、そして九州・薩摩島津氏の島津義久(しまづよしひさ)、島津義弘(しまづよしひろ)兄弟のみとなった。これまでの九州は、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)をはじめ、肥前の竜造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)、薩摩・大隈の島津義久、義弘を中心に三国が凌ぎを削り後に九州三国志(きゅうしゅうさんごくし)と謳われるようになる。その後、状況は一転。均衡を破ったのは島津であった。島津は長兄であり当主の義久を筆頭に、義弘、島津歳久(しまづとしひさ)、島津家久(しまづいえひさ)と稀代の名将で島津四兄弟(しまづよんきょうだい)と恐れらた。義久は本国にてどっしりと構え、義弘は前線にて指揮を執る。島津四兄弟率いる島津軍は、薩摩から大隈、日向の三州を統一し、九州三大勢力の一角を占めるほどに成長した。いよいよ九州制覇戦(きゅうしゅうせいはせん)へ突入した島津軍は、怒涛の如く北上を開始。そして、九州最大勢力である大友宗麟と雌雄を決する日が訪れた。九州制覇戦の3大決戦のひとつ「耳川の戦い」である。 […]

薩摩の猛将「島津義弘」と島津義弘公の菩提寺「妙円寺」 · 2023年2月15日 4:21 PM

[…] 島津義弘(しまづよしひろ)は、薩摩島津十七代当主であり薩摩の猛将である。祖父にいろは歌でも有名な「島津日新斉」(しまづじっしんさい)、父に十五代当主「島津貴久」(しまづたかひさ)を持ち、兄弟には、島津義久(しまづよしひさ)、島津歳久(しまづとしひさ)、島津家久(しまづいえひさ)がいる。そして、この兄弟はいずれも当主としての器量を兼ね備え優秀であったことから、九州においては島津四兄弟としてその名を轟かせた。義弘の青年期は、現在の鹿児島県、そして宮崎県である薩摩国、大隅国、日向国にて各豪族を巻き込んだ島津家の主権争い、そして、隣国との戦いに若くして参戦。この戦いは、三州統一戦(さんしゅうとういつせん)と呼ばれ、岩剣城の戦い(いわつるぎじょうのたたかい)が有名である。この岩剣城の戦いは、祖父「日新斉」、父「貴久」そして四兄弟が勢揃いした最初で最後の戦いであった。この戦いに勝利した日新斉、貴久は、島津家宗家の地位を安泰に導くことに成功する。しかし、三州統一を果たした島津家であったが、長年の宿敵である日向国「伊東義祐」(いとうよしすけ)が三千の兵を率いて義弘不在の「加久藤城」(かくとうじょう)を急襲。急遽帰城した義弘であったが、兵が揃わず百人にも満たない軍勢で戦いに挑む。義弘は、軍を三手に分けて伊東軍を混乱に導いた。これが世にいう「島津の釣り野伏せ」である。九州に義弘ありを決定づけたこの戦いは「木崎原の戦い」(きざきばるのたたかい)と後世に語り継がれ、稀に見る大逆転勝利は、後に九州の桶狭間(おけはざま)と謳われた。後に木崎原の戦いに敗れた伊東義祐は、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)の元に逃れ島津氏の北上のけっかけを与えてしまう。一方、島津家は、十五代当主「貴久」から十六代当主「義久」へと代替わりを果たし、義弘を中心とした九州制覇戦へ突入していくのである。 […]

島津家久と佐土原城址の歴史 · 2023年2月16日 1:29 PM

[…] 日向国に侵攻した島津義久は、直ちに国境強化を図った。島津四兄弟の三男「島津歳久」(しまづとしひさ)を肥後国境「祁答院」に。そして、豊後「大友氏」への対応に四男「島津家久」を佐土原城へ配置し九州制覇戦に突入する。以降、日向佐土原二万八千石として「島津家久」「島津豊久」「島津忠興」へと受け継がれることになる。1996年(平成8)の発掘調査により天守台跡と金箔瓦の破片が見つかったことで、佐土原城の屏風伝説が真実となった。しかし、天守閣がいつ存在したかは不明である。江戸期の佐土原藩時代は、徳川体制でありえない。島津氏が天守を造るのも考えにくい。そうなると伊東義祐の栄華時代が天守も小規模ということから妥当ではないか。 […]

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