関白秀吉軍の本隊が、北薩「出水 」 へ入る

1587年(天正十五)八月、秀吉は、肥後佐敷から出水に入った。
その数、十数万。
ここ出水は、薩州島津家「島津忠辰」が領しており、忠辰は、秀吉に対し既に恭順の意を表していた。
出水は、大口(現在の伊佐氏)と共に、現在の出水麓武家屋敷群を基幹とした肥後口の防衛線である。
秀吉を、ここ出水に導いたのも、この忠辰であった。
忠辰が、秀吉に降った理由がある。
薩州島津家は、島津忠良(日新斉)の頃からの因縁がある。
現在の宗家当主「島津義久」の先代となる貴久が、三州統一を目指し、薩摩国を転戦する際、忠辰の父、島津義辰と争った。
義久と父の貴久は、島津忠良(日新斉)の伊作島津家。
忠辰と父の義辰は、薩州島津家であり、
島津家の主権、または薩摩国の覇権を巡り争そった。
結局のところ義辰が敗れ、北薩摩は、島津貴久、義久親子の勢力下に置かれることとなる。
「本来は我が薩州島津家が宗家となるべきである」
〈義久から宗家当主の座をとりもどす〉
忠辰は、秀吉の島津征伐に乗じて、起死回生の機会を待った。
忠辰が、海岸線にて秀吉を出迎える。
「なんと・・・」
忠辰は、その大兵団に驚いた。
現在の出水武家屋敷群がある、ここ出水は、鶴の越冬地で有名である。
先日、鶴の大群が北へ飛び立った矢先である。
今度は、入れ替わり秀吉の大軍が出水へ入ったのであった。

出水麓武家屋敷群

東洋のナイアガラ~伊佐市大口の「曽木の滝」

滝幅210メートルを誇る曽木の滝。
あまりの壮大なスケールに曽木の滝は、「東洋のナイアガラ」として有名となった。
2008年に伊佐郡菱刈町と新設合併して伊佐市となった大口市は、戦国期には、出水と共に、北薩の最重要防衛拠点であった。
大口には、島津家臣団の中でも武勇誉れ高い「新納忠元」が大口地頭として肥後国に睨みを利かせた。
忠元は、「鬼武蔵」として恐れられたことは有名であるが、薩摩島津氏で武功者を数える際まず最初に親指を折る武将であったため「大指武蔵」または、「親指武蔵」とも称された。
そんな忠元と曽木の滝にも、こんなエピソードがある。
秀吉と島津の和議が成立し、秀吉が撤退する時の事であった。
秀吉が、曽木の滝を見物し帰途につくことを知った島津方が案内することを申し出た。
その案内人が忠元であった。
鬼武蔵「新納忠元」を警戒した秀吉は、忠元の袖を離さなかったと伝えられる。

大口(現在の伊佐市)の東洋のナイアガラ「曽木の滝」

北薩戦国物語探訪★第二章・守護の決断!義久無念の降伏~甲冑工房丸武(旧川内戦国村)【薩摩川内市】に進む


1件のコメント

九州三国志④島津歳久の意地~義久降伏、しかし・・・ · 2023年2月14日 11:15 PM

[…] なんと関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)から安堵されたのは薩摩一国のみであった。島津義久(しあづよしひさ)は、お家存続のためやむを得ず降伏したが、義久は悪感を覚えた。弟達の行動である。“義久降伏”それは通常であれば、島津家の降伏を意味する。義久の悪い予感が的中した。島津義弘以下、島津歳久、新納忠元(にいろただもと)などは、徹底抗戦の構えを崩さなかった。義弘の狙いは薩摩のみではなく、大隈、日向の安堵。これを死守線と考えた。九州制覇戦においても実質総大将であった義弘が屈服しなければ、島津の戦いは終わらない。結果、義弘は粘り続け秀吉から三州の所有を認めさせた。これで戦いは終わったと思いきや、さらに波乱が起きる。義弘が降伏した後も、三男歳久が徹底抗戦の構えを崩さなかったのである。歳久としては、もともと秀吉との戦いは無謀と判断していた。しかし、一旦戦ったのであれば最後まで戦う。しかも、後継となる忠隣をこの戦で亡くしている。やはり考えは一つ、徹底抗戦であった。その意味としては、守護代の兄義弘とは異なっていた。お家を第一に考えなければならない立場、当主義久。さらに考え結末を優位に導く義弘。純粋に武門の意地を通しつくす歳久。 […]

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