北朝足利一門「斯波高経」と「小黒丸城跡」が語る戦いの歴史

南北朝時代における北朝の有力足利一門である斯波高経(しばたかつね)。
足利泰氏の嫡男「家氏」の系統として「足利家の別家または、別流」として他の足利一門と一線を画す高い家格を有した。
越前守護である高経は、1336年(元元年/建武3)足利尊氏と新田義貞、楠木正成との戦い「湊川の戦い」にて足利軍として参戦し勝利に貢献。
しかし、その後は、越前国(現在の福井県)にて南朝方の新田義貞と戦いを続けるも、新田氏に加担する「平泉寺衆徒」の抵抗もあったことから、1338年(延元3/建武5)日野川の戦いで敗れ、高経は、越前国府を諦め退去することになった。
その後、リベンジを誓った高経は、「小黒丸城(おくろまるじょう)」を拠点に反撃の機会を伺う。

足利尊氏と斯波高経

斯波高経、反撃の拠点「小黒丸城」

一時は、新田義貞に敗れた高経であったが、足羽七城の一つ「小黒丸城」を含む黒丸城(くろまるじょう)を拠点に反撃を開始。
南北朝時代を舞台とした軍着物語「太平記」でも登場する足羽七城(あすわななじょう)。
足羽七城における7つの城には諸説あるが、小黒丸城(おくろまるじょう)がエントリーされる説としては、小黒丸城・勝虎城・藤島城・波羅密城・安居城・江守城・北庄城(福井城)があげられる。
ちまみに黒丸城は、「小黒丸城」「大黒丸城(だいくろまるじょう)」の総称である。
反撃を開始した斯波高経は、新田義貞と再び刃を交える事になり、1338年(延元3/暦応元)現在の福井県福井市藤島町付近にて藤島の戦い(ふじしまのたたかい)が勃発。
この戦いで、新田義貞を討ち取る事で勝利を収めた斯波軍であったが、小黒丸城から出撃した斯波軍「細川出羽守」などが藤島城に向かう義貞と偶然遭遇したことで乱戦となり、灯明寺畷にて義貞を討ち取ったと伝わる。
義貞の首は京都に送られ、引き回されたのち、獄門に掛けられた。

斯波高経が反撃の狼煙を挙げた「小黒丸城址」

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