1.天武天皇と持統天皇
(1)第40代天皇「天武天皇
中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)のちの第38代天皇「天智天皇(てんじてんのう)」の弟。
諸説はあるが大海人皇子(おおあまのおおじ)としての若年期は、兄の天智天皇を支えるも、天智天皇の第一皇子であり第39代天皇「弘文天皇(こうぶんてんのう)」即位時期と同時に吉野に下った。
これは、弘文天皇に譲位したい天智天皇への警戒心からきたものであり、天智の死後、古代日本における最大の内乱「壬申の乱」へと発展していく。
壬申の乱にて「弘文天皇」に勝利した大海人皇子は、その後第40代天皇「天武天皇(てんむてんのう)」として皇后であり後の「持統天皇(じとうてんのう)」と共に「皇親政治」のもと律令の整備を進めた。

(2)第41代天皇「持統天皇」
鸕野讚良(うののさらら)は、第38代天皇「天智天皇(てんじてんのう)」の娘であり、第40代天皇「天武天皇(てんむてんのう)」の皇后である。
天智天皇の死後、古代日本における最大の内乱「壬申の乱」に勝利した天武天皇と共に「皇親政治」として律令の整備を進め、天武天皇の遺志を継ぎ女性天皇として第41代天皇「持統天皇(じとうてんのう)」として即位する。
「飛鳥京」から「藤原京」への遷都、「飛鳥浄御原令」を制定。
日本で8人存在した女性天皇の中でも、最も活動した一人として名前があげられる。
ちなみに薬師寺は、天武天皇が病気で苦しむ皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って造営したものである。

2.天武・持統天皇陵
奈良県高市郡明日香村野口
天武・持統天皇陵は、「天武天皇」と皇后であり後の「持統天皇」の合葬墳墓である。
天武天皇の遺志を継ぎ律令国家の成立に向け尽力した持統天皇。
ラブロマンスとして語り継がれがちな夫婦であるが、後継者問題に至っては別のようである。
天武は生前、展示の子を含む6人を呼びともに協力するという盟約をかわさせた。
これが「吉野の盟約」である。
序列としては、「草壁皇子」「大友皇子」「高市皇子」となるが、天武の崩御以降は密かに後継争いが勃発。
特に優秀と期待された大友皇子が謀反、そして自害。
これは持統の謀略とする説が強い。
3人の皇子のうち、持統の皇子は草壁ただ一人であったのである。
しかしその草壁も間もなく病死するが、第41代天皇「高市天皇」は実現せず「持統天皇」が誕生。
この裏にはやはり歴史を裏で操る藤原家の天才『藤原不比等』の存在があった。

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