最終更新日
2026年4月20日
藤原家を最高権力へと押し上げた稀代の天才『藤原不比等(ふじわらふひと)』。
元は「史」(ふひと)としたが、後にあまりの才からも比べる者がいない為「不比等」とされたと伝わる。
ここでは、稀代の天才であった藤原不比等を追究する。
1.律令制度の整備
1.律令制度の整備
娘を天皇家に嫁がせるなど政外戚政治の確立により、政治の中心に入り込む仕組みを確立。
そして、大宝律令(たいほうりつりょう)の制定に関与し、国家運営を「法律ベース」に変えた。
2.藤原不比等、成功への戦略
単なる「有能な政治家」では説明しきれない彼の本質は、権力を“継続させる仕組み”を設計した点にある。
①「血筋」だけに頼らなかった戦略性
父は藤原鎌足という大功臣であるが、不比等の時代は未だ藤原氏の権力は絶対的なものではなかった。
そこで「家柄」ではなく「制度」によって権力を固定化。
これは当時としては極めて先進的で、“実力者が死ねば終わる政治”からの脱却でもあった。
その結果、後に藤原四家、道長、頼道という本格的な藤原氏の世が訪れる事になる。
② 律令国家という“ルール支配”
不比等は大宝律令の編纂に強く関与し、国家運営を「法律ベース」に変える。
法律を作る。
すなわち権力側として武力ではなく、制度で支配する構造を確立していく。
③外戚戦略
不比等は娘を天皇家に嫁がせ、天皇の外祖父(母方の祖父)となる。
持統天皇系統、後の皇統への影響を強めた。
それにより、天皇をも直接支配せずも、実質的に支配するという“影の権力”を手に入れる。
これが後の摂関政治の原型となった。
第42代「文武天皇(もんむてんのう)」、第45代「聖武天皇(しょうむてんのう)」いずれも夫人は不比等の娘であり、後も藤原家の血が皇統に深く関係していく。
0件のコメント