1.天空の城と呼ばれる越前「大野城」の歴史

1568年(永禄11)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。
上洛した織田信長は、越前国の朝倉義景に上洛を促した。
当然義景は、拒絶するが、この頃から越前「朝倉義景」と織田信長との間に一触即発の雰囲気が漂い始める。
そして、遂に1573年(天正元)、朝倉義景の本拠である越前一乗谷が陥落。
義景は、六坊賢松寺にて自害したことで朝倉家は、滅亡する。
越前国を手中に収めた信長であったが、越前国内にて一向宗による一揆が続発した。
その一揆殲滅に向かったのが織田配下の将「金森長親」(かなもりながちか)である。
1575年(天正3)、金森長近は、越前大野に侵攻し大野郡の一向一揆問題を収束。
長親は、その功により大野郡の大半を信長より与えられた。
越前大野を領した長親は、まず大野の縄張り調整に着手する。
越前戌山城とは別に亀山に平山城の城郭、そして、城下町の整備である。
そして、1576年(天正4)、遂に後に「天空の城」と呼ばれる『大野城』が誕生した。

天空の城「越前大野城址」

2.福井の観光スポット「大野城の雲海」

大野城の東側に展開された梯郭(ていかく)式の城下町。
半矩形で整備された城下町を梯郭式と呼び、東西南北それぞれに6筋を数える短冊形に区切られた町人屋敷は、歩いているだけでも昔懐かしく楽しい。
これゆえに越前大野は、北陸の小京都と呼ばれる。
飛騨高山城のある岐阜県の高山市は、どこか近代的な手の入ったところが感じられるが、越前大野は、あまり近代的な手が入っていない。
私は、個人的に越前大野を紹介するときには、「あまり、いじられていない飛騨高山」と表現している。
そして、なんといっても最近では全国的に有名となった福井県「大野市」の観光スポット『大野城の雲海』である。
四方を山々に囲まれた大野盆地が創り出す幻想的な光景。
雲海が広がっていくさま、そして、雲海が晴れていくさまが、まさに雲海芸術であり、この世のものとは思えない感動に包まれる。
しかし、この大野城の雲海は、なかなかお目にかかれない事でも有名である。
前日の湿度が高いこと、前日に雨が降った日など、様々な条件が必要らしい。
雲海の予報など詳しくは、公式サイト「天空の城・越前大野城」を参照願います。

3.金森長親

美濃源氏土岐氏の支流であった一族が、土岐市の内紛による経緯から美濃を離れ、近江国の金森(現在の滋賀県守山市金森町)に移ったことから「金森」姓を称した金森氏。
近江金森に拠を移した金森定近の次男が後の『金森長親』(かなもりながちか)である。
そして、越前大野の領主となるわけだが、越前の朝倉義景を滅ぼした信長であったが越前の一向宗に手を焼いていた。
一向宗を過小評価していない信長は、早速、金森長親、原政茂に越前一向一揆の鎮圧を命じる。
そこで、長親は、わずかな日数で敵将「杉浦玄任」を討ち鎮圧に成功。
長親は、「越前一向一揆」鎮圧の功により越前大野郡の3分の2を与えられ、さらに信長の信頼を得ることになる。
しかし、日本を揺るがした大事件「本能寺の変」にて織田信長が明智光秀の謀反によりこの世を去ると、羽柴秀吉に接近。
後の豊臣秀吉による越中征伐では、越前大野から飛騨高山に攻め込み功を挙げる。
最終的には、越前大野「越前大野城」から飛騨高山「飛騨高山城」へ移り生涯を閉じた。
私見を述べると、金森長親の特徴のひとつとして、山岳越え、そして山岳戦のプロフェッショナル。
そして、盆地における近世城郭整備のプロフェッショナルでもあったと考える。
奥美濃から山岳地を超え越前大野に乱入。
越前大野から同じく山岳地を超え飛騨高山に乱入そして制圧。
まさに、「武功」「文官」両道の名将のひとりであった。


5件のコメント

犬山城主「朝倉景鏡」の黒歴史と天空の城・撮影スポット「越前戌山城」 · 2023年1月21日 9:10 PM

[…] 南北朝時代に斯波義種(しばよしたね)によって築かれたと伝わる「犬山城」。本来は、戌山城(いむやまじょう)と表記するところ、本ページにおいては、犬山城(いむやまじょう)と表記する。南北朝時代に足利尊氏の北朝方にて活躍し、新田義貞と激しく抗争を繰り広げた斯波経高(しばつねたか)の五男「斯波義種」は、越前犬山城を拠点に守護大名「大野斯波家」として発展と遂げる。その大野斯波家も斯波家内紛により1475年(文明7)には、家臣である朝倉孝景(あさくら たかかげ)に越前守護の座を奪われてしまう。その後の犬山城は、越前朝倉氏の大野郡統治の城として歴史舞台に登場。特に、朝倉家最後の当主「朝倉義景」の従弟にあたり、朝倉一族の中でも筆頭格であった「朝倉景鏡」(あさくらかげあきら)の居城として知られる。本丸頂上までのルートは、「みくら清水」から上りルートと東から登ってくるルートが存在する。近年は、越前大野城が「天空の城」として全国的に有名な観光スポットとなったことに伴い、天空の城「大野城」を撮影する絶好のスポットとしても大人気。越前大野の観光には、越前大野城のほかにも大野城の西に聳える標高約325に築かれた「越前犬山城」と「朝倉景鏡」の歴史にも触れてみてください。 […]

埋蔵金伝説と天正地震で沈んだ伝説の飛騨「帰雲城」 · 2023年1月22日 6:06 PM

[…] 内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ)は、飛騨の国人として「白川郷」を中心に繁栄した小大名である。しかし、本能寺の変で信長がこの世を去り、後継レースを勝ち抜いた羽柴秀吉が織田家臣で最後の敵、越中の佐々成政征伐に乗り出すことで、内ヶ島家は揺れた。内ヶ島家は、豊臣秀吉の佐々成政征伐「富山の役」では、佐々成政に付き秀吉方の将である越前大野城主「金森長近」と戦う。当時は、佐々成政に従い氏理は、飛騨を留守にしていたため、代わりに荻町城主「山下氏勝」が帰雲城に入っていた。その後、帰雲城の有力支城である「向牧戸城」が落城したことで降伏。金森長親配下として所領安堵されるが、天正地震の被害を受け死亡。百年以上「白川一帯」を支配した内ヶ島家が断絶する。しかし、内ヶ島一族でもあった山下時慶・山下氏勝父子は生き延び、特に、氏勝は有能にて徳川家に名古屋城築城を献策したと伝えられる。 […]

帰雲城の支城として高い防御力を誇った「向牧戸城」 · 2023年1月22日 7:07 PM

[…] 飛騨「向牧戸城」の歴史は、飛騨「帰雲城」の歴史より古い。十五世紀後半、足利義政の命により信濃より進出した内ヶ島為氏が、白川郷を支配し「向牧戸城」を築城。後に内ヶ島氏は、本城を新しく築城した帰雲城(かえりくもじょう)へ移すことになるが、それ以前は、向牧戸城(むかいまきどじょう)が本城として機能していた。向牧戸城跡は「荘川であいの森」(高山市荘川町牧戸字城山)の敷地内に存在し、本丸には、展望施設が設置され公園としても安心して楽しめる空間である。静かな向牧戸城址から想定されるように、織田信長、佐々成政に従い戦国末期までは、安定した領国経営が続いた。しかし、織田信長が本能寺の変にて倒れ、豊臣秀吉と佐々成政の間に一触即発の気配が漂い始めた。そして、佐々成政への旗幟を鮮明にすることで、全てが瓦解し始める。豊臣秀吉の越中征伐「富山の役」では、白川郷の総帥「内ヶ島氏理」は、佐々成政に従い飛騨を留守にしていた。秀吉方の将で越前大野城の城主「金森長近」の侵攻に備えた飛騨留守居役の荻町城主「山下氏勝」、向牧戸城主( むかいまきどじょう)「川尻氏信」は大きく揺れた。氏理が留守である本城「帰雲城」を守る山下氏勝に対し、向牧戸城主である川尻氏信は、金森長近に内応した。本来堅城であったはずの向牧戸城が落城したことにより、内ヶ島氏理は長近に降伏する。 […]

武将「金森長近」が築いた飛騨三万三千石「高山城」と屈指の観光地、飛騨高山城下町 · 2023年1月23日 2:12 PM

[…] 飛騨「高山城」(ひだたかやまじょう)は、金森長近(かなもりながちか)が現在の岐阜県高山市に築城した城である。天守の位置など多少異なるものの、三木自綱時代の「天神山城」を改築し飛騨「高山城」(ひだたかやまじょう)を新しく築城。1585年(天正13)、豊臣秀吉による越中「佐々成政」征伐において、越前大野城の城主であった長近は、秀吉の命に従い越前大野から飛騨国へ侵攻を開始した。内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ)の帰雲城(かえりくもじょう)を攻略した金森軍は、飛騨高山へ進軍し三木自綱(みきよりつな)を討ち取り佐々成政の後方を攪乱に成功。成政が降伏し「富山の役」が終結すると、長近は、秀吉から転封の命を受け飛騨三万三千石を有する大名となる。間もなく「天神山城」を改築し「高山城」を、新らしく築城した。高山城(たかやまじょう)は、標高約680Mの臥牛山(巴山)現在の城山に築かれた城で、本丸には、石垣も残りその他、曲輪、堀、土塁などの遺構も所々に残っている。長親は、織田信長の築城術に影響されたとし、越前大野城同様、規模こそ小さいが、そこそこの天守を採用している。又、城下町も越前大野と飛騨高山は、城下町も何処となく似ている。天守を訪れるには、かなりの体力が必要である。私は、子供を連れて上ったこともあるが、なかなかに厳しかった。岐阜の城廻は、難儀である。 […]

飛騨「向牧戸城」(岐阜県高山市荘川町向牧戸)①埋蔵金の行方!金森長近、向牧戸城攻め · 2023年1月30日 4:20 PM

[…] 天正十三年八月、豊臣方の武将「金森長近」が越前大野城から出陣。その数三千。〈成政も無謀な事を・・〉長近の心中も複雑であった。それもそのはず、かつては共に信長に仕え、秀吉より格上の身であった。それが今では、立場が入れ替わり、秀吉の下に甘んじている。実力主義とはいえ、心中耐えがたいものがある。金森勢が白川を経由し、飛騨国へ入った。まずは、白川を治める内ヶ嶋氏理を攻める手筈である。内ヶ嶋家の本城は帰雲城であり、支城として荻町城、向牧戸城が存在する。主の氏理は、佐々成政の命を受け、越中遠征のため白川を留守にしていた。そのため、氏理家臣である荻町城主の山下氏勝、向牧戸城主の川尻氏信は迷った。特に向牧戸城主、氏信はこの時、主のいない帰雲城に入っており、向牧戸城を留守にしている。既に金森勢は向牧戸城攻めに入っていたが、向牧戸城は堅城である。〈暫く様子をみよう〉氏信は堅城、向牧戸城に賭けた。一方、金森勢は猛攻撃をかけるがなかなか城は落ちない。やむを得ず、策を弄した。そして、再攻撃をかける。長近が弄した策がはまり、城方の裏切りにより戦局が大きく動いた。長近は内部工作を仕掛けていたのである。 […]

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