前田利家、出世の象徴として面影が残る七尾「小丸山城」

前田利家、出世の象徴として面影が残る七尾「小丸山城跡」
小丸山城は、前田利家が織田信長の北陸侵攻の功として、能登一国を与えられた時に築城した利家出世の象徴の城である。
利家は、難攻不落と呼ばれた能登「七尾城」には、山城という理由にて入城しなかった。
小丸山城は、北は、七尾湾に面し、東西南は、御祓川を天然の要害とした城であった。
城の規模としては、小規模であるが現在の七尾港を港に持ち要害に囲まれた見事な街づくりを形成している。
また、御祓川を挟み北には、現在の山の寺寺院群を築いたところも、後の金沢城の寺院群と共通する点である。
前田利家は、戦国武将の中でも最も一向宗(一向一揆勢)を知り尽くした武将である。
山の寺寺院群は、北の守りにも備えたと伝わるが、金沢の寺町寺院群と同様に一向宗対策の面が強かったのではないか。

春になると花見客で賑わう「小丸山城跡」

小丸山公園として親しまれる七尾の桜名所「小丸山城址公園」

現在の小丸山城址公園(石川県七尾市馬出町)は、以前は「小丸山公園」として、特に花見時期には、大勢の花見客で賑わった。
地元周辺の小学校遠足の定番としても馴染み深く、大きな相撲大会も園内の愛宕山相撲場で開催されたことも多々ある。
桜の花見時期は、年々早くなっている傾向があるが、4月初には、ソメイヨシノを中心に八重桜まで楽しむことが出来る。
約260本の桜を、ぼんぼりの灯りで眺める夜桜がお勧めです。
園内は、ゆっくり歩いても30分から40分程度で散策が可能。
また、無料駐車場(約40台)も「花嫁のれん館」のそばに設置されているので便利ですが、花見シーズンは、込み合いますので注意が必要です。

前田利家、能登から加賀へと出世街道を突き進む

無料駐車場から「花嫁のれん館」の方に利家と妻・芳春院(まつ)の銅像「前田利家松子之像」が設置されている。
NHK大河ドラマ『利家とまつ』放映が結成された2001年(平成13)に姿を現した像は、七尾市の新しい観光スポットになった。
前田利家は、織田信長の家臣として後の豊臣秀吉、越中の佐々成政と共に出世争いを繰り広げた事でも知られる。
最終的には、格下である秀吉の風下に立つことになるが、織田信長の北陸侵攻に伴い、越前攻めにて越前府中三人衆として所領を与えられたことから快進撃が始まる。
加賀能登侵攻時には、一向宗との戦いにて功を挙げ能登国の主となり、その後、秀吉の天下取りに大きく貢献することから、遂には、加賀百万石の太守となる。
企業にて出世を望む皆さん。
出世の象徴「前田利家とまつ像」を訪れてみてはいかがでしょうか。
そして、天下を目指す方は、秀吉伝説「山王神社」としても慕われる大地主神社をお勧めします。

小丸山城址公園「前田利家松子之像 」


6件のコメント

上杉謙信が苦戦した「七尾城の戦い」が物語る能登七尾城 · 2023年1月14日 1:40 PM

[…] 七尾城陥落後、上杉謙信と柴田勝家率いる織田軍団が加賀の手取川にて激突し「手取川の戦い」が開戦。(戦国物語探訪シリーズ「手取川戦国物語」を参考)上杉軍により堕ちた七尾城ではあったが、冬になると謙信率いる上杉軍本隊が越後へ一時帰還。それを機に、援軍要請に信長のもとに訪れていた長連龍が、織田軍の援軍と共に七尾城を奪還。その後、前田利家が七尾城入りするが、間もなく利家出世の象徴となる「小丸山城」を築城し、本拠を港近くの平地に移す。利家の次男「前田利政」が暫く七尾城に入るが1589年(天正17)廃城となり、七尾城の歴史が幕を閉じる。七尾城跡の石垣は、現在2010以降に行われた調査により面白い情報がもたされた。七尾城を正式な居城として使用しなかった利家であるが、石垣の改築はおこなわれたらしい。特に、鳥越城の戦いで登場する、白山市の鶴来「舟岡城」と石垣の形式が一致するという情報は面白い。今後の「七尾城跡」の石垣調査が楽しみである。 […]

七尾「山王神社」として慕われる大地主神社の歴史 · 2023年1月14日 2:06 PM

[…] 七尾市民がお正月の初詣に出かける神社の№1は、山王神社「山王さん」である。七尾市山王町にある山王神社は、七尾市三大祭のひとつ「青柏祭」でも知られ、石川県の神社庁の説明にも「文明5年畠山修理大夫義統青柏祭に曳山を奉納す」とある。畠山修理大夫義統は、能登国守護であり七尾城の城主であった。青柏祭は、日本一のデカ山と呼ばれる山車が3台登場し、本神社を中心に3日間市内を引き回す有名な祭りである。また、小丸山城主「前田利家」も、「社殿を再建し古格の祭礼を再興する」ともある。利家の金沢入りは、1583年(天正11)であることから、利家が小丸山城の時代であったと推測される。山王さん(さんのうさん)の歴史は深い。初詣は、その歴史ある山王神社がお勧めです。 […]

熾烈な籠城戦「魚津城の戦い」で有名な魚津城。 · 2023年1月28日 9:23 PM

[…] 軍神「上杉謙信」がこの世を去り、本格的な越中東部への侵攻を開始した織田信長。信長は、北陸侵攻部隊「柴田勝家」を総大将に魚津侵攻を命じる。その越後侵攻軍の中には、越中富山城の城主「佐々成政」、能登小丸山城の城主「前田利家」、加賀尾山城の城主「佐久間盛政」も加わり大軍勢であった。上杉方は、揚北三人衆(あがきたさんにんしゅう)と呼ばれた「中条景泰」(なかじょうかげやす)を主に、約三千人の城兵が魚津城を守る。戦の序盤は、柴田勝家率いる織田の大軍を見事に防いだ越後軍であったが、敵は大軍。頼りの上杉景勝率いる本隊も、越後本国が織田軍に包囲され迂闊に救援に迎えない。限界の魚津城の越後軍は、降伏することを選ばずに死を覚悟する。結果、中条景泰をはじめ、色部勝長など数十人の大将格が魚津城にて自刃することで織田軍が勝利する。 […]

「前田利政」という漢(おとこ)・その後③ · 2023年2月19日 8:14 PM

[…] 前田利政(まえだとしまさ)は、前田利家(まえだとしいえ)の次男として生まれる。長兄「前田利長」(まえだ)と共に父利家を支えるが、利政の活躍は主に前田家の金沢移封以降である。兄の利長とは異なり、年齢差十六歳になる弟の利政の性格は戦国乱世向きであり武勇に秀でていたとされる。豊臣秀吉から富山の役の功により加賀・能登・越中の大半を与えられた前田家は、越中国「砺波郡」を中心に利長に。後に、能登国「七尾」を中心に利政が領し基盤を固めていく。当時の七尾には、利家により既に小丸山城(こまるやまじょう)が存在していたが、まだまだ戦国乱世。実際には、まだ能登七尾城(のとななおじょう)は機能していた。小丸山城が本格的に機能したのは、1593年(文禄2)利政が能登に入部した以降ことであろう。それと同時に、山城である能登七尾城の必要性が薄くなり廃城となる。 […]

金沢戦国物語プロローグ~前田利家と前田家系図 · 2023年2月22日 10:34 PM

[…] 前田利昌(まえだとしまさ※別名利昌)、利家親子の時代は、織田信長の家臣として尾張荒子で活躍。その後、前田利家(まえだとしいえ)は、越前府中(えちぜんふちゅう)、能登「七尾城」(ななおじょう)、能登「小丸山城」(こまるやまじょう)、そして加賀「金沢城」(かなざわじょう)へ。その後の豊臣政権における五大老五奉行制(ごたいろうごぶぎょうせい)においては、徳川家康に次ぐ五大老の地位に就くなど出世街道を突き進んだ。加賀百万石を築いた前田利家を加賀前田家初代として二代「利長」、三代「利常」と前田家系図は続く。よく利家が初代藩主との記述がみられるが、正式には、初代藩主は利長であり、利家は、「加賀藩祖」(かがはんそ)もしくは「加賀百万石の祖」(かがひゃくまんごくのそ)である。 […]

宝円寺★金沢戦国物語①「槍の又左」いざ北陸『金沢』へ | 前田利家、若き日の想い · 2023年2月23日 10:16 PM

[…] 利家の庇護により、再建した越前府中の「宝円寺」。1581年(天正9)に前田利家は、加賀、能登の一向一揆討伐の功により信長から能登七尾に移封された。当初は、七尾城(ななおじょう)に入るが港にも近い「小丸山城」(こまるやまじょう)の築城に着手する。それと同時に、小丸山城から北に寺院群を整備。現在の、山の寺寺院群となるわけだが、その地に大透圭徐和尚(だいとうけいじょおしょう)を迎え「宝円寺」を建立。利家は、余程「宝円寺」に心を寄せていたのであろう。利家の出世と共に七尾に移る宝円寺であるが、今後は金沢へ。七尾の宝円寺は、長齢寺(ちょうれいじ)と名を改め山の寺寺院群16寺院の一つとして、七尾市の観光スポットとなり歴史を語り継ぐ。利家は、前田佐々抗争、そして富山の役の功にて豊臣秀吉から金沢を拝領。遂に加賀百万石の大大名となった。当然、金沢にも大透圭徐を招き宝円寺を建立したことは容易に察しが付くであろう。現在の石川門付近に建立された宝円寺は、二代藩主「前田利常」(まえだとしつね)が現在の金沢市宝町に移し、、四代藩主「前田綱紀」(まえだつなのり)が本堂などを含め改築。以降、宝円寺は前田利家の菩提寺として加賀百万石の歴史を語り継ぐ。金沢の宝円寺には、利家の自画像そして、利家の髪を納めた御影堂・御髪堂があり拝見出来る。また、本堂、山門は国の登録有形文化財に指定され貴重な金沢の観光スポットとなっている。 […]

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